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 東京都内のまんなかに位置するこの大きな自然公園のなかでも、その場所は不思議なほど人気がなく、目立たぬ場所だった。木立ひとつ隔てた向こうは、春ともなれば満開の桜のもと、夜通し人の絶えることのない広場だというのに。
 そこは公園内をはしる小枝のような遊歩道のひとつだった。広場へと続く本道と大通りへと出る本道とをつなぐ近道なのだが、鬱蒼と茂る木立を強引に拓いてつくったため昼なお暗いこと。また、閑とした雰囲気を醸すつもりだったのか、道自体を大きく弓なりに反らせた結果、先のようすがまったくわからない。
 薄気味悪く目立たないといえば、これは存在を忘れられるのは当然であった。
 人もめったに通らないためか、ろくさま舗装もされていない道であったが、ひとつだけみものがある。それもとびきり上等のものが。
 道のちょうどなかばに生えたその桜は、裏の広場からながれた種がそこに自生したものだろう。そして、この桜は広場のなかでは決して人の目を引くことはなかったにちがいない。集団から離れひとり大樹した桜は、だからこそ絶世、孤高の美をそなえていた。
 この小径を設計したものはいち早くそれに気づいていたようだ。否、これを見せたいがために道を拓いたのかもしれない。
 桜のかたわらにはベンチがひとつ。それを照らす街灯。
 夜になると、そこにかならずひとりの青年が座っている。去年の今頃、ちょうど桜が満開をきわめたこの時期から一年間、一日も欠かすことなく、青年はあらわれる。
 しかし、そのあいだに青年の存在に気づいたものは誰ひとりとしていない。ほんのごくまれに通る通行人も、週に一度、姿を見せる巡回の警備員さえも。
 青年の姿が最後に人目に触れたのは、一年前のことだ。死後五日がたっていた。
 木の下に足を投げ出し、幹に身をもたれかけたその身体には咲き誇った桜から散り落ちた花びらがうっすらと積もっていた。
 死因は手首大動脈の切断による出血死。木の根元には大きな血だまりの跡が残っていた。
 世間のニュースにはまったく取り上げられなかった。往来の会社員、互いに寄り添う恋人たち、時間の流れに身をゆだねる老人。誰もがひとりの人間の死を知ることもなく、そこを憩いの場とした。
 その晩から青年はあらわれるようになった。
 なにもしない。ただ、静かにベンチに腰掛け、朝になるとすっと消える。
 それだけだった。

 ひらり、と眼前をよぎるものがあった。
 ひらり、くるり、と流れ落ちる。
 淡く、薄い桜の花。
 たった一枚の花びらが青年の顔をかすめるようにして舞い流れていく。
 裏の広場から風に吹かれてきたものだろう。なぜなら、隣にたたずむ桜の木には、花びらどころかつぼみすらいまだにつけていないのだから。
 どうやら、今年も満開のようだ。うかれたざわめきが耳に届いてくる。そんなかすかな物音が、この小径の静寂をいっそう深めさせていた。
 存在とは音だ。音に実体があたえられる。それが人間だ。人間だけではない。あらゆる動物、植物、すべての生命は音を持っている。耳に聞こえる音ではない。あえて言うならば、精神に直接感じられる音。
 魂という実体を持たない音。それが今の青年だった。彼が生前のままの姿をたもっているのは、彼自身がそのかたちを自分の外観と思っているからだ。無意識のうちに魂のかたちを固定しているからだった。
 今年は桜が咲かない。
 その原因はわからずとも、なぜ桜が咲かないのか、その理由を青年は知っていた。
 桜の音が聞こえないのだ。完全に絶えたわけではない。かすかに、感じ取ろうと意識してようやくそれとわかる程度の音。それも風が吹くたびに、雨滴が地を叩くたびに、音の振動は幅を小さくしていく。
 桜は死にかかっていた。
 また、花びらがひらひらと流れてきた。
 はぜ割れた幾千、幾万の細片だったその花びらは、今、群から離れてたった一枚はかなげな印象を残した。
 もうじき夜が明ける。すべてのものが生まれ変わろうとしていた。

 追ってくるものすべてを捨てた彼にとって、時間とは待つだけのものでしかなかった。
 ただひたすらに走り続け、時よりも速く進もうとしてきた。
 だが今はちがう。立ち止まり、時が身を流すままに、自然と想いを同じくして、ただこの桜の盛衰を眺めていたかった。
 その季節にだけ彼を包み込んでくれた桜とともに時間をすごしてみたかった。
 一年前、肉体を捨て純粋に音だけの存在となってここに現れたとき、この木の発する音の大きさを感じた。初めて感じたそれは、まさに自分がちぎれるような物理的な衝撃だった。青年の放つ音の振動が、桜の圧倒的な音の前に翻弄され、内部から突き崩されそうになる。大きな波の前で小さな波がうち消されようとしているのだ。
 恐怖は瞬時にして霧消した。彼は呑み込まれたのではなく、包まれたのだ。
 振幅の幅に同調した刹那、彼は甘美と陶酔に自我を忘失した。そして知ったのだ。この桜の気高さを、渦巻く真理の膨大さを。螺旋を描いて宇宙へと伸張していくさまは、一本の架け橋だった。
 やがて風景が生彩を欠きはじめ、想い出を残して緩やかな眠りにつくころ。とうに花は落ち、たくましく繁った葉も固くもろい残滓ばかりとなった。
 青年は待ち続けた。ただじっと、絢爛たる再会を。

 じくじくとしたなごりが微弱に身体を震わせる。聞きたくないと頑なに心を閉じるほど、その振動は大きさを増して伝わってくる。
 桜は日増しに病んでいった。かつて歓喜に満ちた奏調は不協和音の固まりとなって周囲に死にゆくもののけたたましい嘲笑を放っている。
 新緑の萌える木立に囲まれてただ一本、ねじくれた枝々をかざす巨木は狂った老婆の叫びを思わせた。
 青年がベンチから離れた。一年来、はじめてのことだった。
 己の足で、桜に歩み寄っていく。
 木の表面に押しつけられたてのひらが、まるでぶれたようにその輪郭の明瞭を失った。
 物質的な肉体を持たず、音のみで構成された青年の身体はそれだけに音の干渉を受けやすい。桜のでたらめな音に青年の音がかき乱された結果だった。
 こみあげてくる不快感を堪えつつ、狂った桜の音に神経を研ぎ澄ます。都会の喧噪と渇き飢えた人々の怒声のような雑音。
 てのひらから伝わってくるそんな音をほんの少しずつ受けとめ、自分をかたちづくる音のすべてをつかって癒していく。
 青年のやろうとしていることは共振だった。それを利用して彼は桜を生き返らせようとしているのだった。
 この季節が過ぎ去る前に、もう一度、あの姿をめでたかった。

 木が、震えている。
 うつろな枝のすみずみまで、老いさらばえた皮を脱ぎ捨てるがごとく、苦しみもだえるような震えを木はおこしている。青年は、その震えを自分の身体のなかから感じていた。
 桜を治癒していく過程で、青年はその姿を維持することができなかった。それまで彼をなしていた音は、不透明な空間のゆがみとなって桜の根元にわだかまっていた。
 共振し同調したことで青年の殻は破壊され、より大きな音であった桜に吸収同化されようとしていた。
 同じことが、この桜にもおこっていた。
 回復した桜の音は、以前の桜の音とは微妙に、だが確実に異なったものだった。
 今、桜のうちにはっきりと意識の芽生えがある。一年間、春夏秋冬、生けるものすべてが生命の音のさまを変えていくなか、一本の桜だけを見続けてきたものは、生まれ変わって目覚めのまどろみのなかにいる。
 やがて、それが目覚めたとき、季節は移ろい、すぐにまた長い眠りにつくだろう。
 一年という休息をとりながら、彼はさらなる高みをもとめて宇宙にかかる螺旋を攀っていくのだ。

 いささか時季のはずれた花びらが、広場のなかをひらひらと舞っている。
 すっかりと葉桜となってしまった木々のもと、広場にはもう誰もいない。ただ、夜の闇を照らす街灯が風に流れる幾多の花びらを淡く紅色に浮き立たせている。
 木立ひとつ隔てた小径の方角から、とどまることなく、桜の花びらは吹きおりてきた。


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