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 冬。あらゆる生き物たちは、寒さのなか、心地良い寝床でゆっくりと身体を休め、来るべき刻を待つ。
 春。暖かい風の鬨の声により目を覚ました生き物たちは、冬の長い眠りの間に見た夢を語るべく、いっせいに活動を始める。
 夏。ある者は燦燦と光る日光を満身に浴び、ある者は風の中を疾り、ある者は大空を舞う。誰もが生を謳歌する。
 秋。ゆっくりと、だが確実に自然は彩りを変えはじめる。生き物たちは、夏の想い出に浸りながら、次第、次第とまどろんでゆく。
 そして冬。誰もが眠りにつく。来たるべき刻を待って。


 都内某所、不思議の森。
 森の木々の林立するなか、ぽつんと存在する一軒の家。森に生きる多様な小鳥の囀りと木々の木漏れ日に包まれて、その家から一人の少女が出てくる。
 山河樹、十八歳。泣く子も黙る夏の精である。気候環境統制制御衛星管理委員会執行部夏季責任者。通称、夏の精。人間たちの預かり知らぬところで黒き宙天に浮かぶ衛星をコントロールし、地上に季節をもたらす者。山河樹は、今年からその職に任命された新米の夏の精である。
 彼女の前任者は、衛星のコントロールミスによって太平洋に大規模なエルニーニョを発生させ、地軸にも影響を及ぼし、偏西風が極端に蛇行、その年の夏は観測史上まれにみる冷夏となり、そして彼女は行方をくらました。
「マスター、朝です。お仕事の時間です。おきてください、マスター」
 優しく、落ち着いた物腰の声が、幾分困ったような色を帯びて部屋の中に響いていた。声は先ほどから何度となく部屋の主に呼びかけているが応答はなく、部屋にはやすらかな寝息がこだましていた。
「マスター、おねがいです、いいかげん、本当に目を覚ましてください。ひとりごとはさびしいです」
 依然として主人は眠っている。かわりに枕元で丸まっていた猫が目を覚ました。起き上がり、一度毛づくろいすると、キョロキョロと辺りを見回し、テーブルのうえにある大きな水晶球に目をつけた。
 にゃあ──おはよう。
「やあ、おはよう、なつめ。すまないがご主人をおこしてもらえるかい」
 猫はひと声鳴くと、隣りに眠るご主人の顔をなめまわした。主人はぶつぶつと何ごとかを呟きながら、幸せに満ちた笑い声をあげる。夢の世界の住人を引き戻すべく遣わされた使者は、その前脚の肉球で力いっぱい顔を踏んづけた。
「ん……ぐ、ぐう……だあ、何するのよ」
 寝ぼけまなこで起きだした主人を満足げに見上げると、猫は甘えるようにその手首にじゃれついた。
「おはよう、なつめ」
 樹はあくびの残る声であいさつをし、頭をなでまわした。
「すみません、マスター、無粋なおこし方をしてしまって。私が動きまわれれば、優しいキスで起こしてさしあげられるのですが」
「そっちのほうが不愉快だわ」
 彼女は伸びをして冷徹に言い放つと、シャワーを浴びるために部屋を出ていった。
 残された部屋で、猫が水晶球に覆いかぶさるようにして顔をなすりつけた。
「ああ、なつめ。おまえだけだよ、わかってくれるのは」
 猫はいつもと変わらぬ声で。にゃあ、とひと声、鳴いた。


 食卓のうえに盛られた朝食から漂ってくる香りが、樹の食欲中枢を刺激する。トーストに塗ったマーマレード、スクランブルエッグにまぶしたコショウ、ブラックのコーヒー、なつめのたべるマグロ缶。窓からは夏の朝日に混じって小鳥の囀りが聞こえてくる。
「いただきます」
「にゃあ」
「マスター、お味はいかがでしょう」
 樹が夏の精の仕事にとりかかってから半月がたっていた。
 今年が初仕事の彼女は、はりきるあまりにしょっぱなから夏本番なみの暑さを展開してしまったけれど、それ以外はおおむね順調。夏らしい夏をつくっているといえた。最近では、太平洋の海水温度分布や、高低気圧の配置のコツなどもだんだんとわかってきて、ますます仕事に身が入ってきている。この様子だと、今年は残暑が厳しそうだった。
「マスター、今日は定例報告会議の日です。報告書は大丈夫ですか」
「あたりまえよ。誰が昨日の夜中までがんばってたと思ってんの。それに私の顔は猫の踏み台昇降運動の足場じゃないの。なつめをたぶらかしてへんな遊びをおぼえさせないで」
「すみません、マスター。私が動けられれば、朝は優しいキスで──」
「はいはい、いつの日か優しいキスでおこしてもらえるのを楽しみにしてるわ」
「はい、おまかせください。いつの日にか、きっと」
「…………」
 この仕事についてから、忙しいながらも充実した日々を送っている。
 みずから集め、分析したデータが、身を包む環境となってフィードバックされる。なによりも、そうしてつくりだした夏のもと、生き物たちは精一杯に伸び、育む。
 青い空、浮かぶ雲。彼方より立ち上がる入道雲。
 鳥の鳴き声、蝉の鳴き声。雨の音、風の音。
 照らす太陽。
 なにひとつとしてありふれたものなどないのだ。
「そろそろお時間です。出かけませんと、マスター」
「もうそんな時間か」
 ぼんやりとした思考をきりかえ、手短に支度をした。ひとつ伸びをし、空気を味わうように深呼吸をした。
「じゃ、行ってくるわね。なつめ、おとなしくしてるのよ」
 猫はあくまで素直に、にゃあ、と返事をかえした。
「行ってらっしゃい、マスター」
 優しく、落ち着いた声が言った。
 夏は今日も元気だろうか。
 彼女は扉をあけ、森の中へと足を踏み出した。
 夏の様子を見るために。


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