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普寛講と徴兵除け祈願
−南多摩郡百村の民衆宗教−
 
多摩近代史研究会編集・発行の
「武相民衆史研究通信」第10号(1990年4月1日)掲載。

 1883(明治16)年9月2日、有力な神道教派の一つであった神習教(じんしゅうきょう)の管長芳村正秉(まさもち)は、木曾御嶽山(おんたけさん)にこもっていた行者(修験者)松浦利平を訪ねた。松浦利平は当時、“木食普寛”“二代普寛”をなのり、王滝の岩屋にこもって荒行をおこない、そして地元の王滝村や周辺村々の人々との交流をつよめ、また御嶽山へ参詣に訪れる諸国の御嶽講信者に護符・守札を与え、加持・祈祷をおこなって信者の支持を集めていた。神習教−御嶽講を組織基盤とした国家神道主義的教派−の芳村正秉が御嶽山を訪ねたのは、各地の御嶽講に影響力をもちはじめた松浦利平を無視できなくなり、利平を神習教へ付属させるためだったのだろう。
 松浦利平は、1841(天保12)年、多摩郡百村(現稲城市)に生まれた。故あって家を出、1877(明治10)年以降、埼玉県榛沢郡横瀬村荻野啓治家の下男をしていたが、79年9月に主人が大病にかかり、このおり平癒のために水垢離(みずごり)をおこない、産土神(うぶすなかみ)への祈願をおこなったこと、そして祈祷のためにやってきた本庄駅の普寛講行者と出会ったことが、かれを宗教者への道へといざなうことになる。利平は、18世紀末に木曾御嶽山の王滝ルートを開いて御嶽講を組織した普寛行者(聖護院派=本山派の修験)と一体化するという宗教的な覚醒体験をもったのである。以後、諸人救済のため諸国をめぐって祈祷による病気なおしなどをおこない、1881年以降、普寛にならって御嶽山にこもり荒行に取り組むことになる。
 利平は、芳村と会談した1年半後の1885(明治18)年2月、神習教に付属して教師(中講義)となり、権大講義を経て1886年10月には少教正となる。ただ、神習教への付属はそう長い期間ではなく、1885年11月には離脱の動きがあり(この時点では思い止まった)、1888年1月には神宮教(管長田中頼庸)付属の少教正へ転じている。
 なお、松浦利平が御嶽山をおりて、郷里の南多摩郡百村や埼玉県入間郡を拠点に本格的な布教活動に入るのは、1886(明治19)年であり、神奈川県・埼玉県・東京府・長野県・岐阜県などに展開する講を、“神道木食普寛講”“大開闢神祇木食普寛講社”(のち普寛教会となる−また明治おわりには神習教へ復帰し、神習教支教会・普寛教会本部をなのる)に組織し、百村の“木食普寛本部”が統括するようになる。
 それはともかく、木食普寛講の松浦利平と神習教の芳村正秉との関係は、よく知られている丸山教の伊藤六郎兵衛と富士一山講社(後の扶桑教)の宍野半(ししのなかば)の関係に似ていよう。各地の富士講を糾合して富士一山講社を組織した宍野にとって、もっとも活動的な富士講の一派であった丸山教の付属化は教派拡大の格好の機会であり、一方丸山教の側も、布教活動の合法性を獲得するために有効だったといわれているが、これは松浦利平と神習教の関係にもあてはまろう。また、丸山教が国家神道主義的な富士一山講社(扶桑教)へ付属したとはいえ、民衆宗教としての性格が放棄されてしまったわけではない、という点も同様であった。利平もまた、日常的な災厄に取り囲まれて生きていた民衆の願いに寄りそって、国家神道的な教派とは異なる独自の宗教活動を展開していたのである。
 御嶽講は、富士講とは異なって教義の体系化が立ちおくれていたと指摘されているが、そのことも関係してか、松浦利平の宗教思想・社会思想の核心に迫るような教義書はみられない。天理教・丸山教・大本教など、民衆創唱宗教として今まで注目を浴びてきた諸宗派の場合、創唱者の教義書が残され、その核心に迫ることが可能だったが、松浦利平の場合はそれが困難なのである。しかし反面、利平が御嶽山にこもった1881(明治14)年から、亡くなる1891年までの祈念帳(「木曾本山王滝村大滝岩窟行場記」「御嶽大瀧岩窟日記帳」「人民安全祈念帳」「祈念連名」)が残されており−利平の没後、弟の松浦鍋吉があとを継ぐが、鍋吉時代の祈念帳も残されている−、利平の布教記録や信者の具体的な祈念の内容を明確に知ることができる。この貴重な史料の全体的な分析はすんでいないが、人々が“普寛様”に何を期待していたのか、記載事例にしたがって若干紹介しておこう。
 利平が百の本部や、招聘されて各地の講でおこなう祈祷は、天下泰平、国家・村中・講中安全、盗賊除・疫病除などが中心だったが、寄り集まってくる信者たちの具体的な祈祷依頼は、病の回復にかんするものが圧倒的に多く、普寛講が病気直しの宗教として支持を集めていたことがよくわかる。しかし、病の回復だけでなく、悪疫の退散、安産、身体の安全、また家内・講中安全、火防・盗賊除を願う人々も少なくなかった。さらに、家出人の帰宅を願うもの、結婚の是非を伺うものなどもあり、きわめて多彩であった。

  @奉納              東京府下荏原郡品川駅北品川
   一海苔弐枚                     白井伝吉 二十六才男
   一右者耳ノナルニテ永クナヤム者、是非共御加護ヲ以全快ヲ奉心願候敬白
                             右 代参人
      右三笠山講中                    金子定吉
  A一          北玉郡四ツ谷村 市川杢右衛門  娘十六才 ちか女
   右者明治十八年ヨリ左ノ胸ニテ深クナヤム者、左ノ腕アテイタム者、御神符授与下
   ス
  B一                  南玉郡南平村 佐々木□太郎 二十一才男
   右者二月五日ヨリ発病シ、胸イタミ、食スヽマスシシテナヤム者、御神符、御神薬
   授与ス
  C一金拾銭                     坂浜村 石森八郎兵衛
   一金拾銭                       社中六名分
   右悪疫消除之御守御下渡シ奉願候
  D家出 本月十日            当中宗岡村 大熊利平 娘十九才む免女
   貴宅願  祈祷行   信心仕貴宅有や

 これらの願いにたいして利平は、加持・祈祷をおこない、護符・守札を与え、そして病によっては“神通丹”と称する薬を与えていた。
 また、農業にかかわる願いも多い。稲虫(いなむし)その他の虫除や鼠除、養蚕安全(養蚕盛大)などである。これらの願いは、各村の村民が連名で、作付種目や反別、さらには耕作地の地図などをそえて利平のもとへ送り、祈祷をうけることが多かった(養蚕の場合は蚕種の枚数を書きあげている)。岐阜県美濃国恵那郡付知村などは、“稲虫除講社”を組織し、利平にたいし、五穀成就・虫除の祈祷依頼をおこなっていた。同じ恵那郡の蛭川村、加茂郡の切井村でも、“神道木食普寛永代講社”が100名ほどで組織され、稲田・木綿畑・大根畑・大豆畑などの「穀物非害虫除御祈祷御願」を御嶽山にこもっていた利平に依頼していた。 この他でもっとも注目されるのは、なんといっても「徴兵除」の祈願だろう。

  E旧十月十三日 十一月十九日(注−明治18年)
           崩越組(注−長野県西筑摩郡王滝村)
   十銭納                     大前作五郎忰
   徴兵除  親幸々為                 大前丑吉 丑年廿一才
    祈念行 身体安全符下□
  F  御願書      美濃国恵那郡蛭川村壱番地 澤木銀次郎
                           慶応二丙寅年十二月十九日生
                          当年十九年七ヶ月
   右ハ私儀今般徴兵ニ差当リ、当年十一月□□相成候門、何卒のがれニ相成可様ニ御
   祈祷致被下度、此段宜シク御依頼申上候也
   并ニ私当年作付ノ大根・大豆ノ虫除ノ御祈祷致被下度、此段宜御願上申候也
        明治十九年六月廿七日            右 澤木銀次郎 [印]
     信濃国筑摩郡御嶽山ニ□テ 木食不寛様
  G三月十三日 旧二月十九日(注−明治20年)
   徴兵役除キ               入間郡南畑村 渋谷藤吉
   親幸心為ニ                      忰 藤 七 二十一才
    祈祷行 疫難除守下

 このような徴兵忌避の祈願は(ほかに“兵役安全”祈願もある)、病気平癒や虫除、家内安全などにくらべれば数は多くはないが、“祈念帳”の1885(明治18)年11月と12月だけでも7例を数えるのだから、例外的な事例というわけでもなかった。徴兵忌避の願いが、日清・日露戦争前までの民衆の心をとらえていたことはよく知られており、民衆の願いの一つとして、“徴兵除”が祈願の対象となることは、少しも不思議なことではなかった。 とはいえ、神習教や神宮教などは、国家神道体制と天皇制を下から支える有力な神道教派であった。国家と天皇にたいする国民・臣民としての義務(=兵役)を忌避することは、とうてい容認できるものではなかったろう。利平が民衆の徴兵忌避の願いをいれ、“徴兵役除”“兵躰除”の祈祷をおこなっていたことは、木食普寛講が、神習教や神宮教の傘下にあったとはいえ、これらの教派神道とは異質な性格をもつ宗教であったことをよく物語っている。病や虫害、徴兵など、生活と生産(労働)に直結した災厄をとりのぞき、諸人を救済して安全に導くという、民衆に密着した宗教活動を展開していた普寛講の民衆宗教的な性格が、ここによくあらわれていたといえよう。
 普寛講関係の史料は、『稲城市史』の編集過程で調査されたもので、まだその全貌を視野にいれるにいたっていないが、明治期の民衆願望を詳細にとらえるために貴重な史料と考えられ、なんらかの形で紹介したいと思う。
  
 

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