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コーナーV 祈りと信仰の旅
 

 大泉寺・観音堂の奥にある秋葉堂の火祭りは、長い伝統をもち、また古い様式を伝えているといわれます。この火防(ひぶせ)の信仰を大事にしてきた小山田の人びとの宗教的な世界を、秋葉信仰・大山信仰・伊勢信仰、あるいは地神信仰などにさぐってみます。また秋葉山や大山、伊勢への信仰は、旅と密接につながり、旅は物見遊山・社会見学の格好の機会でもありました。祈りと旅をとおして、小山田の民俗の世界にふれてみようと思います。


■秋葉堂の火祭り[写真]  町田市立博物館提供
下小山田の秋葉堂(大泉寺参道脇、観音堂の裏手)では、11月16日に火祭りの儀式がおこなわれ、火災難除けが祈願されます。各戸より思い思いの薪材がもちよられ、積み重ねて火がつけられ、大泉寺住職が献燈神酒をささげて読経します。神仏分離以前の古い形式を踏襲したものといわれています。ただ、日記その他で、火除祭りが確認されるのは、現在のところ明治30年代に入ってからです。
■秋葉神祭奉納帳 下小山田町・大谷公二家文書
大泉寺境内観音堂の裏手にある秋葉堂(秋葉社)は、鎮火・防火の神を祭っています。毎年3月23日が例祭で、各講中で寄付金を集め、神楽(かぐら)堂ではお神楽が演じられました。
■秋葉道中日記ノ扣 下小山田町・若林照雄家文書
1839年(天保10)正月2日、下小山田村の若林氏が秋葉山へお参りに行ったさいの道中日記です。行路・宿泊地、旅籠代・昼食代、籠・馬賃、大井川越賃などが記されています。14日に帰村しますが、翌日には秋葉講仲間の日待ちがあり、お神酒(みき)が振る舞われ、代参報告会はにぎやかに開かれたようです。
■秋葉代参名簿 下小山田町・大谷公二家文書
下小山田村では、120戸(うち3戸は女性名)で講中をつくり、静岡県周智(すち)郡春野町の秋葉神社に、毎年2名ずつの代参者を立てていました。1881年(明治14)3月には、中村与一・薄井忠九郎、82年2月には、小川銀之助・若林徳次朗が出かけています。
■相模国大山図 下小山田町・若林照雄家文書
1878年(明治11年)出版届け。丹沢山脈の南はじ、相模国大山は、石尊大権現を信仰対象とする信仰の山でした。とくに、雨乞いの信仰と結び付き、近在を初め江戸からも多くの参詣者を集めました。小山田にも大山講があって、7月31日に代参者4名が参詣していました。
■大山阿夫利神社の筒粥表 下小山田町・大谷公二家文書
大山の阿夫利(あふり)神社で、毎年1月7日におこなわれる筒粥(つつがゆ)の神事(粥占の神事)で、その年の作物の豊凶が占われ、筒粥表として配布されました。占いの結果は、作付け種目に影響を与えたのでしようか。
■大山阿夫利神社のお札[写真]
■往来手形 下小山田町・大谷公二家文書
農民が在所を離れて遠方へ出かけるには、村役人の承認と、許可証・身分証明書としての往来手形の携帯が必要でした。出展史料は、ともに大泉寺が発行したもので、「諸国の堂場拝礼の為」「諸国神社仏閣参詣の為」の旅であることが記されています。
■明治時代の旅行届  下小山田町・大谷公二家文書
1879年(明治12)。下小山田村の若林有信ら27名が、伊勢参りに出かけるさいの旅行届。
■「地神斎」染筆(せんぴつ)依頼書一件 下小山田町・大谷公二家文書
下小山田村大沢の「地神斎(地神塔)」建立にあたって、大谷啓助が碑面文字の執筆(染筆)を依頼しようとして認めた書簡と塔の図面です(1847=弘化4年5月付)。路傍に立つ石像の建立由来がはっきりする史料の発見はきわめてまれで、たいへん貴重です。この地神斎は、白山神社の鳥居脇に現存しています。写真を参照してください。
■大沢の「地神斎」[写真]  町田市立博物館提供
1980年(昭和55)、尾作武氏撮影。下小山田村大沢講中が、1847年(弘化4)6月朔日(ついたち)に建立しました。通例「地神塔」と呼ばれ、土地の神、百姓の神としての「地神」を祭るものです。白山神社の鳥居脇に建っています。
■繭玉とドンド焼き[写真]
繭玉は、繭に擬して米粉で白い玉を作ったもので、養蚕の豊作を祈る儀礼の一つでした。この繭玉を、1月14日の道祖神の祭りであるサイノカミ(塞の神・ドンド焼・左義長)で焼いて食べると、病気にかからない、悪魔払いになるとされます。また、書き初めを焼いて習字の上達を祈る行事でもあります。もともとは、村の外(異界・世間)から侵入する厄災や悪霊を防ぐ道祖神を祭るものでした。1981年、上小山田町で撮影。
■小山田薬師尊[軸]  上小山田町・森清敏家文書
薬師如来は、衆生の病苦・無明の救済にあたる仏として信仰されました。左手に持っているのは、薬壺です。小山田地区には、上(かみ)と下(しも)にそれぞれ薬師堂がありましたが、この薬師尊は、上小山田の薬師堂の立像を模したものと思われますが、立像は室町時代の作と推定されています。 
■補陀山大泉禅寺之景[覆刻] 下小山田町・大泉寺寄贈
1905年(明治38)当時の大泉寺銅版画。もともとは、小山田五郎行重が父の有重の菩提のために建立した道場で、のち曹洞宗に転じて開山は無極慧徹和尚(1430=永享2年没)と伝えられています。下小山田村の古刹で、「其結構雄大ナル実ニ近郡ニ冠絶セリ」と記されています。左手前には、小山田尋常小学校の建物が見えます。
■大泉寺の朱印状と朱印箱 下小山田町・大泉寺提供
年貢・課役が免除された寺社領には、証明書としての朱印状が下されました。大泉寺には、1591年(天正19)以降の写しが残されています。朱印状を大事にしまっておく朱印箱の裏には、“寛延2年4月に大泉寺23世の大量鉄舟がこれを求めた”、とあります。寛延2年は、1749年です。
■大泉寺の山門[写真] 町田ジャーナル社提供
■観音堂のご開帳[写真]
大泉寺参道右側の観音堂では、1月17日に初の縁日があり、馬に乗った参詣者で賑わいました。 参道では、競馬(くらべうま)もおこなわれ、参道の反対側にあった小山田学校は休校となりました。教員大貫秋次郎の日記「学事雑録」の1887年(明治20)1月17日の条には、「競馬ニテ休ミ」とあります。写真は、1975年(昭和50)のご開帳のおりの撮影です。
■武相観世音33ヵ所巡り  図師町・佐藤正心家文書
図師の漢学者・佐藤後素は、1903年(明治36)の卯年のご開帳にさいし、33の観世音菩薩を詣でました。後素によれば、観音めぐりは1759年(宝暦9)に、相州下鶴間の観音寺や木曾の住善寺(覚円坊)が中心になって始められたようです。とおして回れば3日半の行程でした。
■養樹院円通庵のお札 町田市立博物館提供
上小山田町平の曹洞宗寺院・養樹院は、かつて円通院という真言の寺院であったようで、円通庵というお堂にその名を残していると言われています。武相観音36番の札所で、凖提(准胝)観世音菩薩のお札が配布されていました。
■おみくじ  下小山田町・大谷公二家文書
江戸時代の御神籤(おみくじ)と考えられますが、残念ながらどこの寺社のものかはわかりません。


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