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【8、南方熊楠とアナーバーの仲間たち】
 
〔南方熊楠〕
109[写真]南方熊楠(みなかたくまぐす) 慶応3年4月15日(1867年5月18日)〜1941年(昭和16)12月29日             田辺市・南方文枝氏(南方熊楠邸保存顕彰会)
110[写真]羽山(はやま)繁太郎に贈った熊楠肖像写真 1886年(明治19)12月
田辺市・南方文枝氏(南方熊楠邸保存顕彰会提供)
111南方熊楠の和歌山送別会演説草稿 1886年(明治19)10月    田辺市・南方文枝氏
112南方熊楠の旅券 1886年(明治19)10月30日            南方熊楠記念館
113熊楠の渡米航海中の日記 1886年(明治19)12月        田辺市・南方文枝氏
114PHILATELIST´S ALBUM(切手帳)の序文 1887年1月27日    田辺市・南方文枝氏
115ナイヤガラ見物旅行中の熊楠の日記 1887年(明治20)9月   田辺市・南方文枝氏
116[原寸写真複製]「大日本」第一号 1889年2月1日作成
                          橋本久雄家(入間市博物館保管)
117[原寸写真複製]「珍事評論」第一号 1889年(明治22)8月17日発行
                                 南方熊楠記念館
118「珍事評論」第二号 1889年(明治22)9月15日発行       和歌山市立博物館
〔橋本義三・福田友作・海老塚弥三〕
119福田友作の橋本義三宛書簡 1885年(明治18)12月1日
橋本久雄家(入間市博物館保管)
福田友作(慶応元=一八六五年八月生まれ)は、下野国下都賀郡穂積村(栃木県小山市)の出身で、自由党急進派に近い活動家でした。一八八五年に渡米し、八六年春には同郷の海老沼弥三、福島県の丹森太郎、佐賀県の中野権六らと「九人会」を、一一 月の解散後は「惟一会」を結成し、政治の討論研究をおこなっていました。「惟一会」グループは、新日本発行グループとともに愛国同盟の結成に向かいます。この書簡は、橋本義三が渡米に際してのアドバイスを、一足先に渡米した福田に求めたため書かれたものです。福田はのち、橋本義三や海老沼弥三とともにアナーバーのミシガン大学へ入学して法学を勉強し、一八九〇年(明治二三)一一月下旬に帰国の途につきます(帰国は一二月二三日)。日本のジャンヌ・ダルクと呼ばれ、後に社会主義者となる景山英と結婚したことでも有名です。
120[写真]渡米直前の橋本義三 慶応2年8月15日(1866年9月23日)〜1930年(昭和5)5月4日                     橋本久雄家(入間市博物館保管)
武蔵国入間郡藤沢村(現入間市)の人。東京の漢学塾で学んだ後、帰郷して郡役所書記をしていましたが、福田友作のアドバイスで一八八六年(明治一九)五月ころ渡米し、愛国同盟に関係しますが、一八八八年八月に桑港を離れ、九月ミシガン州のアナーバーへ移り、福田友作や海老沼弥三とともにミシガン大学で学びます。大学では、財政経済学と政治学を学び、二年後の一八九〇年七月ころ帰国します。帰国後は、「自由新聞」に関わり、翌年には粕谷家を継ぎました。九二年に県会議員、九八年には衆議院議員となり、大正期には副議長、議長を歴任します。
121[写真]橋本義三の恩師と仲間 1886年(明治19)   橋本久雄家(入間市博物館保管)
橋本義三が、渡米に際し恩師を囲んで撮影した写真です。前列左から、先生、粕谷徳蔵、先生、二男定治。後列左から、沢田一蔵、橋本義三、友山時次郎。義三は川越の講習学校を卒業後、一八七九年(明治一二)に東京の島村孝司の漢学塾に入門します(島村は、安井息軒の門弟です)。先生とは、この島村孝司でしょうか。
122友山時三の橋本義三宛誓約書 1886年11月23日   橋本久雄家(入間市博物館保管)
渡米の決意をした橋本義三が、友人で、一〇年来渡米を希望し続けてきた友山時三に、渡米の決意を伝える誓約書を渡したようで、友山も友誼の継続の誓約書を橋本に差し出しました。
123海老沼弥三の橋本義三宛書簡 1887年12月13日   橋本久雄家(入間市博物館保管)
《住所不明で新聞の発送を止めていた岡田と新村(治三郎)の住所が分かったから、新聞を発送してほしい》と、海老沼弥三が橋本義三に依頼した葉書です。一八八七年は推定ですが、もし間違いがなければ、新聞とは「大東振起新報」か「新日本」ということになりそうですが、今までの研究では二人がこのころ新聞発行に関与した事実は確認されていません。海老沼は、下野国寒川郡上生井村の出身で、福田友作とともに自由党急進派にきわめて近い活動家でした。福田とは、「九人会」「惟一会」「愛国有志同盟」と行動をともにし、さらに同郷の橋本義三を加えてミシガン大学で学んでいました。日付は、消印です。
124橋本義三の講義ノート「Law of Partnersip」 1889〜90年(明治22〜23)
粕谷義一家(入間市博物館所蔵)
ミシガン大学ウエルズ教授の講義を筆写したノートです。
125橋本義三の講義ノート「LECTURES ON THE LAW」 1889〜90年(明治22〜23)
粕谷義一家(入間市博物館所蔵)
法学教授ウエルズの講義を筆写したノートです。義三はミシガン大学で二年間法学を勉強し、学士の称号をとって帰国します。
126橋本義三宛の書留郵便物の受取証 1889年8月25日 橋本久雄家(入間市博物館保管)
アナーバーの橋本義三が送った書留を、福田友作が受け取った旨の証明書で、橋本宛に郵便局から送付されたものです。福田は当時、アナーバーから西へ二〇〇qほどのコンスタンチン(Constantine)に滞在していたようです。
127ミシガン大学在学中の橋本義三宛父・要作書簡 1889年(明治22)9月26日
橋本久雄家(入間市博物館保管)
父の要作はいつものように、村の様子や物価などを詳細に書き送っています。また、このころは「ムカシナジミ」の海老沼弥三と福田友作と一軒の家を借り、手料理などしていたことも、この手紙から知れます。
128東ケ崎菊松のアナーバーへの手紙 1890年1月12日 橋本久雄家(入間市博物館保管)
「福音会」の会員で、一八八六年(明治一九)に発足した「九人会」、その後継組織「惟一会」のメンバーだった東ケ崎菊松が、アナーバーの福田友作・橋本義三・海老沼弥三にあてた手紙です。
129[写真]「海老沼弥蔵氏帰朝ニ際シ安何婆府ニ於テ撮影ス」 1890年(明治23)5月6
日                         橋本久雄家(入間市博物館保管)
ミシガン大学で勉強を終えた海老沼は、帰国に先立ち各地を見学するために、一足早く旅立ちますが、そのおりに撮影された写真です。後列右側が橋本義三、後列左側が福田友作(推定)です。前列の椅子に座っている二人の内の一人が海老沼弥三なのでしょうが、確認できません。海老沼は帰国に先立ち、ニューヨークやワシントンを回り、議会などを見学したあと、帰国したようです。橋本義三も、海老沼の後を追う約束だったようで、このあとすぐに帰国します。
130[写真]橋本義三とミシガン大学の仲間たち 1890年(明治23)5月ころか
橋本久雄家(入間市博物館保管)
手前左、椅子に座っているのが橋本義三、その後ろ、立っているのが福田友作(推定)です。海老沼弥三が五月に、橋本義三も六月にはアナーバーを立っていますので、その直前ぐらいに撮影されたのでしょう。橋本と福田以外は、人物を特定できませんが、まん中の人物は、神奈川県大住郡西富岡村(現伊勢原市)出身の小澤正太郎の可能性があるかもしれません。
131ナイアガラフォールズの海老沼弥三からアナーバーの橋本義三宛書簡 1890年(明治
23)5月7日                    橋本久雄家(入間市博物館保管)
五月六日に別れの記念撮影をした海老沼は、橋本や福田に先立ちニューヨークへ向かいますが、途中ナイアガラフォールズに立ち寄り、さっそく橋本宛に葉書を出しました。自分は馬車を雇って半日、紳士を気取って当所の名勝を見物した、と書いています。
132海老沼弥三の橋本義三宛書簡 1890年5月22日   橋本久雄家(入間市博物館保管)
帰国のためにミシガン大学での学業を終えてアナーバーを立った海老沼は、ニューヨークやワシントンを見学していました。橋本はかれのあとを追う約束だったらしく、海老沼は旅の様子などを書き送っています。
133海老沼弥三の橋本義三宛書簡 1890年5月23日   橋本久雄家(入間市博物館保管)
五月二二日に橋本義三宛書簡をしたためた翌日の朝、海老沼は義三からの手紙を受け取り、この書簡を急ぎ書きました。義三の書簡が、旅立ちの延期をにおわす内容だったからです。「兎ニ角ニ来週中ニ出発スベシ」とこの手紙を結んでいます。
134福田友作(ともさく)が編集に参加した『刀水新報』 1891年(明治24)2月20日創刊
東京大学法学部附属近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫)
『刀水新報』は、茨城県の民権家で、福田とは明治一〇年代からの同志だった館野芳之助が創刊した雑誌です。前年一八九〇年の一一月下旬にアメリカを発ち、一二月二三日に帰国した福田は、病気の館野に代わって刊行に尽力します。第五号(四月二五日刊行)には、「何ぞ海外的精神を奮起せざる」と題する論説を載せ、また同人社での演説筆記もあわせて載せています。
135同人社の生徒募集広告 『刀水新報』第五号(1891年4月25日刊行)
東京大学法学部附属近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫)
ミシガン大学で法学士の称号を得て帰国した橋本(粕谷)義三と福田友作は、中村正直(敬宇)が創設した外国語学校「同人社」に主任教師として招かれ、福田は学校運営に当たる幹事を引き受けていました。ただこのころの同人社には、慶応義塾や攻玉社とともに三大義塾といわれた面影はなく、ずいぶんと衰退していたようです。
136『竹堂粕谷義三伝』 1934年(昭和9)10月25日
東京大学法学部附属近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫)
粕谷(旧姓橋本)義三は衆議院議長時代、「名議長」といわれ、信望あつい政治家でした。一九三〇年になくなり、伝記編纂や銅像建設が進められました。在米時代には、一一頁があてられています。
〔茂木虎次郎〕
137[写真]茂木(もてぎ)虎次郎 元治元年6月15日(1864年7月18日)〜1928年(昭和3)
9月6日                    佐藤愛輔家(横浜開港資料館保管)
武蔵国児玉郡太駄町(埼玉県児玉町)の出身。郷里出身の商人、原善三郎を頼って横浜へ出、商人の知識を磨くことを目的として結成された「横浜研磨会」に参加しました。一八八四年(明治一七)八月渡米し、ミシガン大学に入学、法学士号を取得して一八九〇年(明治二三)六〜七月ころに帰国します。ミシガン大学在学中に南方(みなかた)熊楠(くまぐす)らと親交を結び、熊楠から「留学七年中に、日本人として語るべきものはこのもののみ」と評価された人物で、熊楠らが発行した回覧新聞「大日本」の「持主」ともなっています。帰国後は自由党系の演説会に弁士として顔を見せ、また社会主義者となる石川三四郎に多大な影響を与えた人物としても知られます。石川は茂(もて)木(ぎ)を、「最も極端なる財産平均論者」だったと述べています。
138[複写]茂木虎次郎の渡米送別会 「東京横浜毎日新聞」1884年(明治17)8月15日
復刻版『東京横浜毎日新聞』より。横浜商人の知識研磨のために設立された「横浜研磨会」は、渡航直前の八月一三日に、送別会を開きました。参加者は三〇名余りでしたが、県会議員の来栖壮兵衛や早川覚兵衛、横浜商法学校長の三沢進も出席していました。
139[複写]茂木虎次郎が参加した横浜研磨会についての報道 「東京横浜毎日新聞」18
84年(明治17)6月17日 
復刻版『東京横浜毎日新聞』より。横浜商人の知識研磨のために設立された「横浜研磨会」についての報道です。茂木はこの会員となっていました。
140[写真]茂木(佐藤)虎次郎 帰国後の撮影    佐藤愛輔家(横浜開講資料館保管)
茂木は帰国後、「自由新聞」の発行人を引き受けますが、和歌山県東牟婁郡の佐藤家に養子に入り、再び留学し、またオーストラリアの真珠採取業者として知られるようにもなります。また明治三〇年代には、「横浜毎夕新聞」(後の「横浜新報」)の経営を引き受け、衆議院議員にも当選します。晩年は朝鮮侵略の先兵的な役割を担います。
141佐藤虎次郎の死を報じる「同民」 「同民」四九号(1928年10月1日刊)
佐藤愛輔家(横浜開港資料館保管)
佐藤(旧姓茂(もて)木(ぎ))は大正期に、朝鮮農林株式会社を設立して土地の買い占めをはかり、また「内鮮融和」の名の下に「同民会」を組織し、植民地支配の最前線にたちます。一九二六年(大正一五)、宗学先の襲撃を受け、その傷がもとで亡くなります。朝鮮総督斉藤実にまちがわれての襲撃とも伝えられています。
〔小澤正太郎〕
142[写真]小澤正太郎(政許(まさもと)) 1867年(慶応3)9月〜1920年(大正9)2月
伊勢原市・小澤光孝家
143小澤正太郎の小澤勘左衛門宛葉書 1883年9月20日付    伊勢原市・小澤光孝家
144小澤正太郎の勘左衛門・元右衛門宛書簡 1885年1月15日付 伊勢原市・小澤光孝家
145小澤チヨの小澤元右衛門宛葉書 1885年(明治18)6月12日付 伊勢原市・小澤光孝家
146小澤正太郎の小澤勘左衛門・元右衛門宛書簡 1886年1月6日付
                              伊勢原市・小澤光孝家
147小澤元右衛門の小澤ちよ宛書簡 1886年(明治19)6月29日付 伊勢原市・小澤光孝家
148小澤正太郎の祖父母・両親宛書簡 1890年5月31日付    伊勢原市・小澤光孝家
149橋本義三の小澤勘左衛門宛書簡 1890年(明治23)5月31日付 伊勢原市・小澤光孝家
150小澤正太郎の家族宛書簡 1890年(明治23)6月27日付    伊勢原市・小澤光孝家
151橋本義三の小澤勘左衛門宛書簡 1890年(明治23)8月18日付 伊勢原市・小澤光孝家
152小澤正太郎の祖父母・両親宛書簡 1890年8月25日付    伊勢原市・小澤光孝家
153小澤正太郎の書いた新聞記事 1890年(明治23)       伊勢原市・小澤光孝家
154小澤政許著『日本契約法原論』 1897年(明治30)8月1日発行   中央大学図書館
155小澤政許講述『債権法』 1900年(明治33)発行          中央大学図書館
156福沢諭吉の書「独立自尊」 年不明            伊勢原市・小澤光孝家
157[写真]小澤正太郎の生家 明治3年(1870)着工 伊勢原市西富岡
158[写真]小澤正太郎の墓 伊勢原市西富岡
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