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3 移管に反対する人びとの運動

 多摩のなかでも、とくに南多摩郡と西多摩郡の住民にとって管轄替法案は、寝耳に水、なんの準備ももたない突然の押しつけ法案でした。両郡住民の動揺、反発、怒りは大きく、なかでも移管問題に政治的な陰謀を感じとった神奈川自由党は、猛烈な反対運動を組織します。
 国会にもっとも多くの議席をもっていた自由党は、いちはやく断然反対の方針を決議し、多数の神奈川県会議員も移管に反対を表明します。南・西多摩両郡の全町村、北多摩郡の五村の町村長・助役も貴衆両院への反対陳情をおこないます。これらの町村長・助役は、抗議のためにその職を辞し、役場は閉鎖され、町村行政は一時空白状態におちいるという事態にもなるのです。
 しかし、議会最終日に特別委員会で否決された法案が、衆議院本会議で逆転可決され、貴族院も通過します。
 1893年(明治26)4月1日からの東京府移管が決定されたのです。
境域変更反対の理由書■ 横浜市・飯田助知家文書
「東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律案ニ対シ反対スル理由書」と題するちらしです。すでに1893年(明治26)2月21日の「毎日新聞」には、ほぼ全文が反対派のまとまった主張の事例として紹介されています。
神奈川県会議員による境域変更反対理由書と別表■  真光寺町・小野輝治家 下小山田町・大谷公二家 横浜市・飯田助知家文書
「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案ニ反対スル理由書」と題する、県会議員50名による議会宛の願書で、活版印刷されて広く配布されました。県下90万住民の幸福を犠牲にする移管は不条理、と批判しています。この理由書には別表があると記されていますが、推定史料を添えました。
三郡町村長による境域変更法案反対の陳情書■  真光寺町・小野輝治家文書 横浜市・飯田助知家文書
南多摩郡と北多摩郡の町村すべて、そして北多摩郡5村の町村長(一部助役)の連名(48名)による、衆議院・貴族院宛の反対陳情書です。反対派のちらしのなかでは、もっとも論理的で、自治の立場からの批判的視点も明瞭です。この陳情書を提出した町村長や助役は、この直後に辞任し、町村役場はほぼ閉鎖されてしまいます。
 該法案ノ利害ニ付テハ両地人民ニ於テ見ル所ヲ異ニシ、各其便否ヲ囂々シテ止マザルコ ト諸君ノ熟知スル所ナラン……
 夫レ該法案ヤ固ヨリ東京市ニ若干ノ利便之レナキニアラザルベシ、然レトモ是ガ為ニハ
 三郡人民ノ利害ハ毫モ之レヲ顧ミズシテ可ナル乎、水道ニ関スル適当ノ処置ハ該法案ヲ
 措テ他ニ途ナキモノナル乎、囂々泣訴スル郡民ノ困難ヲ顧ミズシテ一刀両断ノ処置ニ出
 ルコト或ハ止ムヲ得ザルモノアラン、三郡人民ト雖モ亦涙ヲ呑ンデ之レヲ忍バザル可カ
 ラザル事アラン、雖然如斯ハ周密ノ調査ヲ尽スモ他ニ適当ノ途ナキ時ニシテ始メテ然ル
 モノナラザルベカラズ、然ルニ今ヤ杜撰粗漏ノ方法ヲ専決シ、深ク三郡人民ノ利害ヲ考
 査セズ、隠密ノ間ニ計画シ、議院ノ閉期切迫シテ議事繁劇ナルヲ窺ヒ突然提出スル如キ
 ニ至リテハ、陰険ニ非ラズンバ軽躁ノ極ト云ハザル可カラズ……
境域変更反対の上申書と請願書■  横浜市・飯田助知家文書
神奈川県橘樹郡大綱村(現横浜市港北区)の飯田快三らが取り組んだ、三多摩移管反対の嘆願運動を示す史料です。上申書は内務大臣宛、一緒に綴じられている請願書は衆議院宛です。ともに、飯田快三ら11名が提出しようとしたものと考えられます。
内務省の負担軽減予測に対する反論ちらし■ 横浜市・飯田助知家文書
内務省の算出した、移管後の地方税・町村税負担比較を批判して、三多摩移管後に三多摩住民がかぶる負担強化を論じています。
新聞の“分離利益論”■  東京都公文書館「三多摩引継文書」より〔複写〕
「毎日新聞」1893年(明治26)2月25日付。神奈川県庁の取調べを、横浜よりの通信として報道しました。神奈川県では、三多摩が他郡から補助を受けていて、分離は神奈川県にとって有利とされています。
新聞の“分離利益論”に対する反論ちらし■  真光寺町・小野輝治家 横浜市・飯田助知家文書
1893年(明治26)2月26日付。25日に新聞各紙が、三多摩と他郡との経費予算の収支比較を発表し、三多摩分離が神奈川県にとって有利であると報道しました。これは、神奈川県庁の調査によるものでしたが、移管に反対する県会議員の岡部芳太郎(津久井郡)らは、県の発表の根拠について県庁で調査をおこなった上で反論を公表しました。
三輪村の境域変更運動に対する政府側資料■ 国立公文書館所蔵
明治26年の「公文類聚(こうぶんるいしゅう) 第十七編巻一 行政区」には、南多摩郡鶴川村三輪(現町田市)の都築郡編入運動関係資料が綴じられています。三輪区では、三多摩管轄替法案が可決した直後から、新たな郡域変更(神奈川県都築郡への移管)を実現しようと運動を始めるのです。3月3日には貴族院へ、5月22日には衆議院へ請願書を提出しました。貴族院は請願を採択しますが、内務省が反対し、7月、閣議は内務省の意見をいれて願いを却下することに決定しました。
三輪村の境域変更運動に対する東京府側資料■ 東京都公文書館所蔵
「府県制郡制関係書類」と題する書冊のなかには、鶴川村三輪の斉藤八右衛門外96名からの貴族院への境域変更請願(神奈川県都築郡への編入請願)を受け、内務省が東京府へ意見具申を求めたさいの史料が綴じられています。東京府は、南多摩郡長原豊穣の意見を求めたうえで、反対を上申していました。
東京府知事の具申案には、次のように記されています。
 三輪ハ都築郡ニ隣接セル土地ニ有之も、一帯ノ丘陵ヲ以テ境堺ヲ為セルモノニシテ、地
 形上ヨリ見ルトキハ同郡ヘ編入スヘキモノニ非サルノミナラス、却テ同郡ノ一部ヲ割テ
 南多摩郡ニ編入スル方便宜ナルヘク、若其ノ組替ヲ為ストキハ行政上不便ナルハ勿論経
 済其佗ニ影響シ村治上モ亦不利益少カラス、旁到底組替ノ必要ナキモノト存候……
三輪区の「郡域更正之請願書」草稿■  三輪町・斉藤久八郎家文書
鶴川村大字三輪は、1889年(明治22)から90年の町村制・郡制施行にあたって、隣接する柿生村・岡上村との合併が模索されますが、1893年(明治26)の三多摩の東京府移管問題をきっかけに、改めて都築郡への編入運動が盛り上がり、貴族院へ郡域変更の請願書を提出します。貴族院は請願を採択しますが、請願を回付された内務省は、反対を上申し、結局郡域の変更は実現しませんでした。
「多摩郡の無頼 府知事を脅かす」■  町田市立中央図書館マイクロより〔複写〕
移管直後に多摩を巡回した富田東京府知事の災難を報じる「東京日日新聞」1893年(明治26)4月11日付の記事。
東京府の管轄となった多摩を府知事は、4月5日から巡回しましたが、八王子から青梅に向かった6日、移管反対派の一隊から激しく攻撃され、さらに青梅の旅館も取り囲まれ、座敷へまで押しかけられるという事件がおきました。
陸軍大臣が総理大臣にあてた憲兵派遣報告■  国立公文書館所蔵
国立公文書館の「明治廿六年 公文雑纂巻七」 には、多摩への憲兵隊派遣資料が綴じられています。移管反対を理由に辞職した町村長・助役の後任選出選挙が始まると、取締りのため東京憲兵隊が派遣されたのです。憲兵隊は、7月16日まで多摩に留まりました。
多摩への憲兵派遣理由を報じる新聞記事■  町田市立中央図書館マイクロより〔複写〕
「東京日日新聞」 の1893年(明治26)4月14日付。
移管後の西多摩郡の状況■ 東京都公文書館所蔵
「指令録 第一課 明治廿六年」と題する書冊のなかには、移管直後に始まった町村長選挙の取締りとして東京憲兵隊が派遣された件の資料や、5月に入っても続く西多摩郡西多摩村、福生村、熊川村などでの混乱についての報告などが綴じられています。とくに閉鎖中の西多摩村役場に、非管轄換事務所が置かれ、自由党系壮士によって役場が占拠されるという状態が続いていたこと、22日に解散退去を執行したことなどが報告されています。
町村長選挙会の実施へ■  小山町・杉山寿一家文書
南多摩郡堺村(現町田市)の「明治廿六年村会議事録」には、移管後の4月13日に、村会を開き、村長・助役の辞職を認可し、村長・助役の選挙会を開こうとした記録が記載されています。定数に満たないために、村会は翌日に持ち越されましたが、「村長・助役ノ辞職ハ三郡ノ輿論ニテ辞シタレハ是非認定」をという発言を受けて辞職を承認し、新村長・助役の選挙をおこないました。すでに5日に、東京府知事の多摩巡回に合わせて三郡交渉会が開かれ、さらに12日には郡役所からの通牒もあって、新町村長・助役を選挙するという方針が決められていたようです。
町村長選挙会のいきさつ■  忠生村役場文書(当館蔵)
南多摩郡忠生村(現町田市)の「村会議録 自明治二十三年至明治二十九年 忠生村」には、管轄替法案の上程にはじまる移管反対運動と村長・助役の辞任事情が詳細に記録され、その上で新村長・助役が決められた経緯が記されています。
明治29年の武蔵県設置反対運動■ 東大和市・鎌田康太郎家文書
中村克昌の鎌田訥郎宛、1896年(明治29)1月17日付書簡。
政府は、第九議会に、東京府の市部を「東京都」とし、官吏の都長官の管轄下に置き、郡部を分離して「武蔵県」を設置する「都制案及武蔵県設置法案」を提出しました。この法案には、東京市部も三多摩も、また自由党も反対しました。とくに「都制」は、「帝都」であることを理由に地方の自治をほぼ全否定する構想で、東京市会からの反発は大きいものがありました。三多摩、なかでも移管に強行に反対した南多摩郡は微妙な立場だったようですが、最終的には反対しました。

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