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1994年度特別展示
武相の困民党 展
 
目 次
1、三浦郡三崎町の負債漁民騒擾 8、負債の実態−懇親上の貸借と苛酷な貸借
2、相州南西部の運動−困民党の運動T 9、仲裁活動−名望家の困民党事件への対応
3、武相国境付近の運動−困民党の運動U 10、自由党の明治17年
4、多摩北部地域の運動−困民党の運動V 11、伝統的な民衆世界と民衆運動
5、「武相困民党」の結成−困民党の運動W 12、真土村事件(松木騒動)
6、指導者のプロフィール 13、困民党復権の運動
7、私立銀行・金貸会社の簇生
 
開催趣旨
 1883年(明治16)から1885年にかけて、武相の農村は不況のどん底にありました。1880年前後は未曾有の好況にわき、活況を呈していましたから、その落差に人びとは打ちひしがれました。
 農村の不況は、物価の下落と増税の形で人びとの生活を直撃しましたが、その結果引き起こされたのは膨大な負債の滞りで、負債の取り立てに困苦する民衆を広範に生み出しました。負債の滞りは、耕作地の喪失や乞食化、あるいは流民化に直結していましたから、人びとをとらえた危機感は、たいへんに深いものがありました。
 この危機感にとらわれた困苦する民衆が、危機打開を目指して党を結び、債主である私立銀行・金貸会社に返済条件の緩和を求める大衆運動を組織します。1884年(明治17)を中心に、武相の山野に一年以上にわたって繰り広げられた「困民党」事件が、それです。
 負債問題をいかに解決するかをめぐる争いですから、ことは単純といえば単純です。しかし、多くの人が負債で難儀しているときには、困難打開のためになんらかの配慮がおこなわれて当然、と思っている人と、契約どおりに借金を返すのは負債人の当然の義務、と考えている人とが争うのですから、簡単に解決できるような対立ではなかったのです。
 困民党の担い手は、民権運動の“旦那衆”に対置されて“底辺民衆”とされ、民権運動の限界をこえる可能性をもった運動と評価されてきました。しかし最近では、負債をめぐる民衆の要求や行動に、近世以来の伝統的な公正観念や民衆独自の反近代的な価値意識を見出し、自由民権運動とは異質で時には対立する、それ自体固有な民衆運動として再評価されはじめています。
 「武相の困民党展」は、困民党事件110年の年に、最初の本格的な困民党展として企画されました。 110年前の人びとが直面した苦難と解決の努力の中に、日本の近代社会成立期の民衆の願いや思いを探ってみようと思います。
1994年7月21日