| 1、開催にあたって |
| 2、北村透谷作品 |
| 3、透谷愛用の品 |
| 4、透谷作品集の刊行 |
| 5、北村透谷碑−数多い“受難の碑” |
| 6、自由民権運動への参加−透谷文学の前提T |
| 7、石阪公歴との交友−民権青年のアンビション |
| 8、老畸人秋山国三郎との出会い−三日幻境の世界 |
| 9、“恋愛は人生の秘鑰なり”美那との恋愛−透谷文学の前提U |
| 10、美那の生涯−残された妻の闘い |
| 11、北多摩郡の政治指導者 吉野泰三との親交−透谷新史料発見の波紋 |
| □ |
| 【1、開催にあたって】 |
| □ |
|
日本の近代文学の成立に圧倒的な影響力をもった文学者・北村透谷(門太郎)は、1868年(明治元)11月に小田原の没落士族の家に生まれ、多感な青年時代を多摩の個性的な人物との交流の中ですごしました。
門太郎が東京専門学校(現早稲田大学)に在学していた14〜16歳のころのことです。ふらりと旅に出ると何か月も学校へ戻らなかったため、級友からはトラベラーとあだ名されていました。そのころ門太郎は、行商人の姿をし、法被[はっぴ]に「土岐・運・来[とき・めぐり・きたる]」と染めぬき、多摩地域を含む神奈川県を放浪していたのです。法被の文字は、“革命の時運がめぐってきている”という意味で、かれは、自由民権家の家を訪ね歩き、民権家やその子弟との交流を深めていたのです。東京にまい戻っても、革命家を自認する急進的な民権青年のグループに加わっていました。
とくに、町田の石阪公歴(野津田)や、若林美之助(下小山田)、榎本重美(真光寺)、座間の大矢正夫(栗原)らは、門太郎とともに学習し、時事を談じ、そして革命を語り合った仲間でした。また、門太郎が生涯尊敬しつづけることになる八王子の秋山国三郎(川口)と出会うのも、多摩放浪中のことでした。
しかし門太郎は、死を約した同志と決別して革命運動から離脱します。惨憺たる煉獄のなかにあったかれを救いだしたのは、熱烈な恋愛の末に門太郎と結婚する石阪美那(野津田)でした。また、美那をとおしてふれることになる、キリスト教でした。美那との出会いが、北村門太郎を文学者・北村透谷として再生させるにあたって、決定的ともいえる意味をもったのです。
25歳4か月という短い生涯でしたが、北村透谷の文学(詩・戯曲・評論・書簡)には、大胆で戦闘的な問題提起や批判があふれています。時代の流れや人間の内面世界に向けるまなざしも、深く厳しいものがありました。その文学活動の原点には、かれの自由民権運動への参加や離脱体験があり、多摩の人びととの琴線にふれる交流があり、そして美那との激しい恋愛があったのです。
透谷が没して、ちょうど百年。町田ともっとも深いつながりをもつ文学者・北村透谷の、文学的創造力の原点にふれていただきたいと思います。
|
| □ |
| 【2、北村透谷作品】 |
| □ |
|
1 〔複写〕「富士山遊びの記臆」 1885年(明治18)夏執筆
鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
一八八四年(明治一七)七月終わりから、八王子や川口を経由しておこなった富士登山の記憶をもとに、一年後の翌八五年夏に、政治小説家を目指して書いたといわれる紀行文です。民権運動離脱以前に書かれた最もまとまった作品で、民権運動左派グループの一員だった門太郎の社会意識の経緯が読み取れ、また富士山体験は後の劇詩「蓬莱曲」などの作品に大きな影響を与えているところから、研究者の注目を集めてきました。二六枚に書付られ、推敲の跡も多いのが特徴です。
2 自筆「呈進」入りの『楚囚之詩』 1889年(明治22)4月9日刊
津久井郡津久井町・奈良雅之氏
透谷最初の詩集『楚囚之詩[そしゅうのし]』は、出版直後に「大胆すぎる」との理由で自ら回収してしまい、現存するのはほんの数点です。それが、一九八六年に神奈川県の津久井郡津久井町長竹から発見されました。それも「呈進」の文字入りという珍しいものでした。高座郡上溝村出身の八木(旧姓金子)虎之助が、透谷から贈られたものと考えられます。虎之助は、南多摩郡小山村の小山小学校、横浜区の石川学校などの教員を勤めた人物ですが、透谷との交流についてはまだよくわかってはいません。虎之助は、一八九一年津久井郡長竹村の奈良サダと結婚し、以後奈良姓を名乗ります。
3 透谷の最初の詩集『楚囚之詩』〔覆刻〕 1889年4月9日、春祥堂刊
鎌倉市・堀越真一氏
透谷の最初の発表作品は、詩集『楚囚之詩』です。
大阪事件の被告たちは、憲法大赦ですでに出獄していましたが、義友大矢正夫は強盗罪のため大赦出獄からはずされて獄中におりました。一方透谷は、牢獄への捕らわれ意識を抱えて呻吟しており、義友への思いと牢獄意識との葛藤のなかから生みおとされたのがこの作品で、法を破って捕らわれた獄中の青年の心理が表現されています。また、当時の新しい詩の創出運動(新体詩運動)の中で、口語調・短歌的様式とは異なる、小説的・物語的な実験詩としての意味ももっていました。
4 透谷の劇詩『蓬莱曲』〔覆刻〕 1891年(明治24)4月29日刊
鎌倉市・堀越真一氏 町田市立中央図書館
人生に懐疑的な主人公・柳田素雄が、蓬莱[ほうらい]山頂の大魔王に誘われ山頂におもむいて対決し、大魔王の救済の誘惑を振り切って山頂から身を投じる物語で、抑鬱的な時代状況のもとで人間の内面的世界への探求へと向かった北村透谷の、最初の本格的な戯曲です。内面的なドラマが同時代人の理解を超えており、また読むための戯曲という性格が強く、さらに後編が中断されたままだったこともあって、長く評価されないままで、舞台に乗せられたのは没後七〇年祭を待たなければなりませんでした。
5 『蓬莱曲』の廉価販売広告 〔覆刻〕『女学雑誌』第330号、1892年(明治25)10月29日
町田市立自由民権資料館
『蓬莱曲』は自費出版でしたが、同時代の人びとの理解は得られず、売行きは良くありませんでした。そのため、委託販売の形をとって、定価の半額で女学雑誌社が販売をおこないました。
6 評伝『ヱマルソン』 1894年(明治27)4月24日刊[第三版、明治33年11月10日刊]
八王子市・橋本岩雄氏
アメリカの思想家・詩人エマーソンの、日本における最初の評伝です。民友社出版発行の「拾弐文豪」の第六編として出版された単行本です。心身共に疲労困憊[ひろうこんぱい]していた時期に執筆された著作で、最終的な原稿整理は島崎藤村がおこなったとも言われています。
7 『女学雑誌』〔覆刻〕 1885年(明治18)7月20日創刊、1904年(明治37)2月15日終刊
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫 町田市立自由民権資料館
近藤賢三、ついで巌本善治が編集人となって発行した、女性啓蒙雑誌です。しだいにキリスト教色を強め、思想・文学にかかわる投稿・評論なども多く掲載されました。北村透谷は、一八八九年(明治二二)七月の「『日本之言語』読む」の投稿をかわきりに、「時勢に感あり」「泣かん乎笑はん乎」など初期の代表的評論をいくつか投稿していきます。『女学雑誌』関係者に注目され始めるのは、一八九二年(明治二五)一月二日号に載った「一點星」以後といわれ、二月六日号の「厭世詩家[えんせいしか]と女性」で注目度は高まります。このころから、透谷が批評欄を担当するようになり、『女学雑誌』は透谷の発表の主要舞台となります。
8 「『日本之言語』を読む」 〔覆刻〕『女学雑誌』第170号、1889年7月13日刊
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
透谷の最初の投稿評論。佐藤寛の講義を八木某が筆記して『女学雑誌』に発表した、日本の言語の英語にたいする優位性を論じた文章を批判したものです。透谷はむしろ、国粋主義的価値判断を退け、文学や詩の未発達な現状から日本の言語の不完全さを論じています。
9 「時勢に感あり」 〔覆刻〕『女学雑誌』第203号、1890年3月8日刊
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
透谷は一八八九年(明治二二)四月に『楚囚之詩[そしゅうのし]』を刊行し、その直後に「大胆すぎる」と回収して以後は、「『日本之言語』を読む」を七月に発表したのみでしたが、秋には社会的関心を昂進させ、一一月に日本平和会の結成に関与し、さらに翌年早々、鋭い社会批評を発表しはじめます。「当世文学の潮摸様」「時勢に感あり」「泣かん乎笑はん乎」などがそれで、これらは『女学雑誌』への投稿でした。なかでも、「君知らずや人は魚の如し、暗らきに棲み暗らきに迷ふて寒むく食少なく世を送る者なり」ではじまる「時勢に感あり」は、緊張感に満ち、新しい日本語のリズムをもった評論で、初期の代表的な作品となりました。
10 「泣かん乎笑はん乎」 〔覆刻〕『女学雑誌』第210号、1890年4月26日刊
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
「公伯の益す昌へて農民の日に凋衰する」現状を鋭くみつめ、血涙を滴[ひたた]らせる困苦する人びと(民衆)に、何らかかわることのできない学者・政治家・宗教家をきびしく批判しています。
11 「厭世詩家と女性」 〔覆刻〕『女学雑誌』第303・305号、1892年2月6・20日刊
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫 町田市立自由民権資料館
「恋愛は人世の秘鑰[ひやく](秘密の鍵の意味)なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽[ぬ]き去りたらむには人生何の色味かあらむ」ではじまる「厭世詩家[えんせいしか]と女性」は、恋愛の精神的な意味を高らかに宣言したものとして、若き文学青年たちに衝撃を与えました。石阪美那との恋愛が透谷にもたらした精神革命を背景にした評論でしたが、結婚のもつ悲劇性についても述べられています。
12 「伽羅枕及び新葉末集」 〔覆刻〕『女学雑誌』第308・309号、1892年3月12・19日刊
東京大学明治新聞雑誌文庫 町田市立自由民権資料館
透谷が文学上の敵とみた硯友社[けんゆうしゃ]の代表的な作家、尾崎紅葉の「伽羅枕[きゃらまくら]」と、西鶴の影響を強く受けた幸田露伴の「新葉末集[しんはずえしゅう]」を批判しつつ、遊廓的な恋愛に対置して神聖的な恋愛観を述べた批評です。 13 「徳川氏時代の平民的理想」 〔覆刻〕『女学雑誌』甲の巻第322〜324号、1892年7月2・16・30日 東京大学法学部明治新聞雑誌文庫 町田市立自由民権資料館
江戸文学に批判的だった透谷が、戯作作家たちに、圧制のもとでつくりだしていた「一種の平民的虚無思想」を確認し、平民的な理想が「地底の水脈」「地底の大江」として流れきたっているという歴史像を提起した評論です。「日本文学史骨−明治文学管見」「国民と思想」などはこの系統の作品ということになります。
14 「三日幻境」 〔覆刻〕『女学雑誌』甲の巻第325・327号、1892年8月13日・9月10日
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫 町田市立自由民権資料館
「三日幻境」は、透谷が「希望(ホープ)の故郷」と呼んだ南多摩郡上川口村を七年ぶり四度目に訪問したさいの透谷の紀行文です。透谷が最初にここを訪れたのは、一八八四年(明治一七)七月の富士登山の途中で、大矢正夫にあっています。二度目は、この年の晩秋から翌年春にかけての秋山国三郎邸での国三郎・正夫との幻境生活のさい、そして三度目は八五年の秋、大矢正夫に大阪事件への不参加を詫びに行ったときです。戦い続けていた透谷にとって川口村は、なつかしい想い出に彩られた幻の里で、そこには終生尊敬し続けた老畸人・秋山国三郎がおりました。九二年の川口行きも、出獄した大矢正夫と秋山国三郎との再会を願っての旅でした。
15 『平和』第7、8、9号 1892年10、11、12月発行
東京大学法学部法学部明治新聞雑誌文庫
透谷が普連土[ふれんど]協会の加藤万治[かずはる]らと、一八八九年(明治二二)一一月に設立した「日本平和会」は、日本で最初の平和運動として有名ですが、雑誌『平和』はこの日本平和会の機関紙として、一八九二年(明治二五)三月に創刊されました。透谷は、この雑誌の編輯者・主筆として、健筆をふるいました。なかでも、「一種の攘夷思想」「各人心宮内の秘宮」などは有名です。
16 『文学界』第1号 1893年1月31日 鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
星野天知、平田禿木らを中心に、女学雑誌社が発行した月刊の文芸誌(のち発行は、文学界雑誌社)。透谷の評論がしばしば掲載され、のちには樋口一葉の小説、島崎藤村の詩なども頻繁に載りました。透谷は第一号に「富嶽の詩神を想う」を載せ、以後人生相渉論争のきっかけとなった「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、代表的な評論「内部生命論」などもこの雑誌に発表しました。
表紙に「石阪」の署名があり、「富嶽の詩神を想う」には主筆で点・丸が施されています。
17 「人生に相渉るとは何の謂ぞ」 〔覆刻〕『文学界』第2号、1893年2月28日刊
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
透谷の友人で、『国民の友』(民友社)の論客・山路愛山の「頼襄論」を読んだ透谷は、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表し、“人生相渉論争”の口火を切ります。文章は事業であり、世の進歩に有益であることを求める愛山にたいし、透谷は功利主義を排した文学の自立性、自然や精神の無辺の彼方に到達する文学的営為を対置しました。
18 「内部生命論」 〔覆刻〕『文学界』第5号、1893年5月31日発行
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
透谷の「頑執妄排の弊」「人生の意義」「賤事業弁」「内部生命論」の四評論が同時に掲載されるという、異例の構成をとっています。論争相手だった山路愛山の背後にあった民友社の巨頭・徳富蘇峰への批判を基軸にしています。
19 「漫罵」 〔覆刻〕『文学界』第10号、1893年10月30日発行
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
透谷は、「国風」と「洋風」が入り乱れている世相の背後に、時代精神の「根帯」の未成立を読み取って、「今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪はれつゝあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の撞突より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり」と述べ、「革命にあらず、移動なり」という有名な言葉を続けました。そして「沈厳高調なる詩歌」や「創造的思想の欠乏」は、その時代の罪であり、文学者や思想家の罪ではないと一見弁護しているような構成をとりながら、時代精神に深く入り込めない透谷自身や文学者、思想家をののしっているように読むことができるようです。
20 「露のいのち」 『文学界』第11号、1893年11月30日発行
鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
「蝉羽」が北村門太郎(透谷)です。
21 「劇詩の前途如何」 『文学界』第12号、1893年12月30日発行
鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
劇詩『蓬莱曲』を書き、ほかにもいくつかの戯曲執筆構想をもっていた透谷の、演劇論です。歌舞伎を越えた新しい演劇「新劇」の創出への期待と、前途の多難さが述べられています。
22 『評論』 1893年4月8日創刊 東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
『女学雑誌』は、一八九二年(明治二五)六月より、編集方針を変えた甲の巻(白表)と乙の巻(赤表)の二種に分けて隔週刊行とされましたが、『評論』はこの白表が改題された雑誌で、発刊と同時に透谷が文芸評論欄を担当しました。
23 『評論』第1号掲載の「日本文学史骨」 1893年4月8日刊
東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
透谷の文学理論と歴史認識を示す代表的な評論です。
24 『評論』第8、13、16号 1893年7、9、11月刊 東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
透谷の晩期の著名な評論、「日本文学史骨」「国民と思想」「兆民居士安くにかある」「万物の声と詩人」「一夕観」などが載っています。
25 透谷が亡くなった直後に発行された『文学界』第17・18号 1894年(明治27)5月30日・6月30日発行 東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
透谷が亡くなって半月後に出た第一七号は、透谷追悼号の形をとり、未発表原稿や追悼文が掲載されました。第一八号には、詩「みゝずのうた」が掲載され、『透谷遺稿』の近刊予告ものりました。また、六月四日(三周忌日)に追悼の会が開かれ、「大家知名の士」の参加をみたことなども報告されています。ちなみに出席者は、美那・英子親子、石阪昌孝、北村快蔵、戸川残花(明三)、内田不知庵(貢)、巌本善治、松村三籟(介石)、植村謙堂(正久)、坪内逍遙(雄蔵)、森田思軒(文蔵)、山路愛山(弥吉)、竹越与三郎、加藤万治、島崎春樹(藤村)、星野天知(慎之輔)などでした。
26 『評論』の北村透谷追憶号 『評論』第29号、1894年10月8日発行
鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
発刊と同時に透谷が文芸評論欄を担当した『評論』は、友人の追憶が掲載されたこの号で最終号とされ、『女学雑誌』と合併します。
|
| □ |
| 【3、透谷愛用の品】 |
| □ |
|
27 透谷愛用の文箱[ふばこ] 鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
ふたは「古乱寄せ木」といわれる箱根細工の技法で製作されています。
28 透谷愛用の硯[すずり] 鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
|
| □ |
| 【4、透谷作品集の刊行】 |
| □ |
|
29 『文学界』第22号に載った『透谷集』の広告 1894(明治27)10月30日発行
鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
透谷自殺直後、六月三〇日発行の『文学界』第一八号に、「透谷遺稿 近刊 右は北村透谷子が遺稿断篇の散逸せんことを惜みて一冊子となしたるものなり、子が轗軻窮愁の短生涯に於て筆にしたるものは悉く網羅蒐集したれば、出板の上は切に知己の愛読を待つ」との広告がでました。本は、一〇月七日に出版にこぎつけ、『文学界』第二一号以下に広告が掲載されました(ただ、透谷の作品をすべて網羅することはできず、三六編にとどまりました)。
透谷集は、文学界の同人が出版しましたが、後年島崎藤村は、「私が編んだり校正したりしたもの」と証言しています。その藤村は透谷を評して、「しかしその惨憺とした戦ひの跡には拾つても拾つても尽きないやうな光つた形見が残つた。彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする。」と述べています。
30 『透谷全集』 1902年(明治35)10月刊、文武堂発行、博文館発売
鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
戦後に岩波版(勝本清一郎編)透谷全集がでるまで、透谷の作品集としてもっとも親しまれたものです。文学界の同人の星野天知、戸川秋骨が序文を書き、平田禿木や島崎藤村が追悼の文を載せています。
31 勝本清一郎編『透谷全集』第1〜3巻 1950年(昭和25)7月、同年10月、1955年(昭和30)9月刊、岩波書店発行 町田市立中央図書館所蔵 町田市立自由民権資料館
北村透谷の研究に心魂を傾けた勝本清一郎が、作品収集の鬼となって編集した『透谷全集』です。戦後の透谷研究は、この全集を出発点に始まります。
32 小田切秀雄編『北村透谷集』 1976年(昭和51)10月30日刊、筑摩書房発行〈明治文 学全集29〉 町田市立中央図書館所蔵
勝本清一郎の全集(岩波書店の勝本版透谷全集)に依拠しながらも、その校訂方針を批判し、初出原典主義によって校訂した新しい全集本です。
33 勝本清一郎校訂『北村透谷選集』 1970年(昭和45)9月16日刊、岩波文庫
多摩近代史研究会提供
勝本清一郎の全集(岩波書店の勝本版透谷全集)を底本として、一般読者を対象に主要な透谷作品を編集したもの。現在、もっとも身近な透谷作品集といえます。
34 北村透谷作品集〈全集・選集〉一覧
イ、島崎藤村編『透谷集』−文学界雑誌社、1894年(明治27)10月(展示せず)
ロ、星野天知・島崎藤村・平田禿木・戸川秋骨編『透谷全集』−文武堂、1902年(明治35)
1月1日 鎌倉市・堀越真一氏(小田原市立図書館保管)
ハ、代表的名作選集4『透谷選集』−新潮社、1914年(大正3)12月15日〈1920年22版〉
橋本岩雄氏寄贈(町田市立自由民権資料館所蔵)
ニ、星野天知・島崎藤村・平田禿木・戸川秋骨編『透谷全集』上・下−国文館書店、1915年
(大正4)2月23日〈1902年版の分冊重版〉 町田市立自由民権資料館
ホ、島崎藤村編『透谷全集 全一冊(改編透谷全集)』−春陽堂、1922年(大正11)3月15日
八王子市・橋本岩雄氏
ヘ、現代日本文学全集9『樋口一葉集・北村透谷集』−改造社、1927年1月20日
八王子市・橋本岩雄氏
ト、島崎藤村編『北村透谷集』−岩波文庫、1927年(昭和2)7月10日
八王子市・橋本岩雄氏
チ、島崎藤村編『北村透谷選集』−改造文庫、一九二九年(昭和四)二月三日
橋本岩雄氏寄贈(町田市立自由民権資料館所蔵)
リ、勝本清一郎編『透谷全集』第1〜3巻−岩波書店、1950年(昭和25)7月15日〜1955
年(昭和30)9月10日 町田市立中央立図書館 町田市立自由民権資料館
ヌ、『北村透谷全集 第一巻』−宝文館、1957年(昭和32)7月10日
八王子市・橋本岩雄氏
ル、『北村透谷集 附文学界派入門』(小田切秀雄編)−講談社〈日本現代文学全集9〉、
1965年(昭和40)4月19日 町田市立中央立図書館
ヲ、『北村透谷・樋口一葉集』−筑摩書房〈現代日本文学全集8〉、1967年(昭和42)11月
20日 町田市立中央立図書館
ワ、『北村透谷・山路愛山集』−筑摩書房〈現代日本文学体系6〉、1969年6月5日
町田市立中央立図書館
カ、勝本清一郎校訂『北村透谷選集』−岩波文庫、1970年(昭和45)9月16日
多摩近代史研究会提供
ヨ、『北村透谷・徳富蘆花集』−角川書店〈日本近代文学体系9〉、1972年(昭和47)8
月25日 町田市立中央立図書館 タ、『北村透谷詩集』−思潮社〈現代詩文庫1001〉、1975年(昭和50)5月1日
町田市立中央立図書館
レ、小田切秀雄編『北村透谷集』−筑摩書房〈明治文学全集29〉、1976年(昭和51)10月
30日 町田市立中央立図書館
ソ、『坪内逍遙・二葉亭四迷・北村透谷集』−筑摩書房〈筑摩現代文学体系1〉、1977年
(昭和52)9月15日 町田市立中央立図書館 |
| □ |
| 【5、北村透谷碑−数多い“受難の碑”】 |
| □ |
|
35 〔写真〕出身地小田原にたつ最初の透谷碑 小田原城址公園(神奈川県小田原市) 1933年(昭和8)5月16日除幕
小田原出身の詩人福田正夫を中心に、小田原の有志によって建てられたもので、透谷碑としては最初のものです。当時、教師であった福田は、北村透谷全集を教材として夜学の青年会で教えていましたが、しだいに透谷文学の魅力にひきこまれ、熱心に建碑を説いてまわるようになりました。記念碑が完成し除幕式がおこなわれるまでにはさまざまな困難がありましたが、島崎藤村・美那の尽力と人びとの熱意によって一九二九年(昭和四)七月、小田原小峯公園丘上、大久保神社境内に竣工しましたが、地元の理解を得られず、一九三三年五月、透谷没後三九年目の命日にやっと除幕式がおこなわれ、美那も子の英子[ふさこ]、孫の愛子とともに出席しました。その後一九五四年(昭和二九)五月一五日小田原城壁内に移され、同時に生誕地に英子の筆になる生誕地碑が立てられました。
36 〔写真〕北村透谷・美那夫妻の墓 小田原市城山・高長寺墓地 1954年(昭和29)5月13日改葬
透谷ははじめ、芝白金台町の瑞聖寺に葬むられ、美那も一九四二年(昭和一七)四月一〇日に亡くなると、同じ墓に葬られましたが、一九五四年(昭和二九)五月、小田原高長寺の北村家墓地に移されました。
37 〔写真〕生家跡にたつ「北村透谷生誕之地」碑 小田原市万年(旧小田原唐人町) 1954年(昭和29)5月15日建立
小峯公園丘上、大久保神社境内の透谷碑が、小田原城内へ移されたとき、新しく立てられました。透谷・美那夫妻の一人っ子、英子の書です。もとは国道一号線沿いにありましたが、今は少し路地を入ったところに移されています。
38 〔写真〕島崎藤村 北村透谷 幼き日こゝに学ぶ 碑 中央区銀座五丁目・泰明小学校正門脇 1955年(昭和30)7月建立
一八八一年(明治一四)、東京に移った透谷は、泰明小学校に入学しました。透谷は、青年社会に交じって演説の稽古をするなど早熟さを示し、また校長谷口和敬から強い影響をうけました。のちに、透谷から圧倒的な感化をうける島崎藤村も、ほぼ同時期に、転校生として入学しましたが、二人の出会いはほぼ10年後のことでした。
正門脇には、透谷と藤村がここで学んだことを記念する碑が立てられましたが、これは橋本徳三郎教諭が職を辞するにあたって建立したものです。
39 〔写真〕幻となった透谷「幻境碑」 八王子市中野町(工学院大学裏の岡の南斜面) 1957年(昭和32)10月の除幕式以前撮影 八王子市・橋本岩雄氏撮影 提供
「ふだん記運動」の創始者として知られる橋本義夫らが、透谷没後60年の一九五四年(昭和二九)に透谷碑の建立運動を始め、透谷が「希望(ホープ)の故郷」「幻境」と呼んで愛した川口村上川口に建立しようとしました。しかし、周囲の反対を受け、結局一九五七年(昭和三二)に建立地を中野町に変更して除幕式をおこなおうことになりました。ところが、幻境でもない中野町に幻境の文字を刻んだ碑を立てることにクレームがつき、断腸の思いで碑面を削って「内部生命の碑」とし、一〇月二六日に除幕式がおこなわれました。写真は、碑面を削り取られる前の「幻境碑」で、今となっては“受難の碑”の貴重な証言写真となっています。
40 「内部生命の碑」 1957年(昭和32)10月26日除幕 八王子市みつい台(旧谷野町)
八王子市中野町(工学院大学裏の岡の南斜面)に建てられようとした「幻境碑」は、結局碑面の文字「幻境」に反対が向けられ、除幕八日前に碑面を削って、透谷の代表的な評論「内部生命論」の一節を刻んだ石を貼り付けて除幕にこぎつけました。八王子の北方、岡の上に立つこの透谷碑は、八王子の町を一望するように立っていました。ところが、一九七〇年前後、碑のすぐ背後の谷野町の山が削られ、みつい団地が造成されると、いつのまにか団地内の公園に移されてしまいました。どこまでも“不運な碑”といえましょう
41 「希望(ホープ)の故郷」にたつ「幻境の碑」 1977年(昭和52)6月19日除幕 八王子市上川町森下
透谷と、透谷が生涯尊敬してやまなかった秋山国三郎との親交を記念し、透谷が「希望の故郷」とよんで愛した南多摩郡上川口村(現八王子市上川町)に建てられたものです。橋本義夫らの建碑が失敗してから、20年の歳月が流れていました。
秋山国三郎家は、土地所有規模では中規模の農家でしたが、村では信頼の厚い名望家で、自由民権運動のうしろだてでもありました。一八八四年(明治一七)晩秋から翌年春にかけて透谷は、国三郎と義友大矢正夫と、のちに幻境生活とよぶ数か月を秋山家で過ごしました。七年後、四度川口を訪れた透谷は、幻境生活の回想を交じえた紀行「三日幻境」を書き、『女学雑誌』甲の巻の325号と327号に発表しました。
42 「透谷・美那子出会いの地」碑 1985年(昭和60)11月3日除幕 野津田町・石阪昌孝邸跡(民権の森)
透谷は一八八五年(明治一八)夏、三多摩自由民権運動の最高指導者である石阪昌孝の長女美那と野津田の石阪邸で出会いました。二年後、透谷と美那は東京で再会し熱烈な恋愛におちいります。一九八五年一一月三日、自由民権運動と透谷文学に深くかかわるゆかりの地として、野津田の「民権の森」のなかに記念碑「自由民権の碑 透谷・美那子出会いの地」が建てられました。
|
| □ |
| 【6、自由民権運動への参加−透谷文学の前提T】 |
| □ |
|
43 〔複写写真〕若き日の北村透谷 1883年(明治16)撮影、14歳 鎌倉市・堀越真一氏
12歳ですでに青年社会で演説の練習をし、13歳で青年党の運動に熱心に尽力した北村門太郎(透谷)は、14歳から15歳にかけては急進的な民権青年グループのなかに身を置いていました。このころすでに、旅に親しみ始めていましたが、三多摩に足繁く通うようになるのは、15歳ころからでしょうか。
44 〔複写〕小学校卒業式で演説した北村門太郎(透谷) 「明治日報」1882年1月24日号
国立国会図書館マイクロより
泰明小学校の卒業証書授与式で、門太郎が「空気及び水の組成」と題して演説し、「上出来」だったと新聞が報じています。透谷は後に、美那宛書簡(一八八七年八月一八日付)で、すでに青年社会にあって演説の稽古をしていたので、この演説は意外に好評で、明治日報の記者は「生を称して奇童なり」と評価した、と回想しています。
45 「大矢正夫自徐伝」 1927年(昭和2)8月脱稿 厚木市・大矢純夫氏
北村透谷が「義友」と呼んだ、高座郡栗原村(現神奈川県座間市)出身の大矢正夫の自叙伝です。古くからその存在が知られ、透谷の自由民権運動とのかかわりを示す第一級資料と予想されていましたが、透谷との交流については詳しい記述がなく、透谷研究者をがっかりさせました。しかしこの自叙伝の記述から、大矢正夫と北村門太郎(透谷)が、一八八四年(明治一七)一月に神田の静脩館で出会ったこと、二人が革命志向の自由党急進派のメンバーであったことなどが明らかになり、その他いくつかの点でも透谷年譜の書替えや書き込みがおこなわれました。
46 透谷と大矢正夫が出会った「静脩館」の規則 1883年11月設立 相原町・青木貢氏
静脩館は、神奈川県出身の在京青年・学生の寄宿舎として神田錦町に設立されました。史料には「明治十一年十一月」とありますが、これは「明治十六年」(一八八三年)の誤りです。この館は、急進的な民権青年のたまり場となっていて、北村門太郎(透谷)も一時寄宿し、大矢正夫らの志士と親交を深めます。
47 明治一七年の読書会グループの記録「読書会雑記」 1884年(明治17)10月
下小山田町・若林宏宣氏
「読書会」は、在京の民権派青年を中心に結成された学習グループで、南多摩郡下小山田村(町田市下小山田町)の若林美之助や野津田村(町田市野津田町)の石阪公歴[まさつぐ]らを中心に活動しました(翌年一月まで九回の読書会が開かれています)。北村門太郎(透谷)もメンバーの一人で、透谷の自由民権運動とのかかわりを具体的に明らかにした最初の地元史料として、注目されてきました。
48 北村門太郎と石阪公歴の旅(公歴の父・昌孝宛書簡) 1885年(明治18)6月24日付
与野市・西城崇士氏(町田市立自由民権資料館保管)
公歴が東京の父昌孝に地元の様子を書き送っていますが、北村門太郎(透谷)とともに名古屋・北陸・山陰・山陽を経て九州までの大旅行を計画していたことも記されています。当時、自由党左派の活動家は全国の有志との接触を強めており、二人の旅もそのような試みだったのかも知れません。ただ公歴は、「北村は途中より引退く人物なりと勘定致居候」と記しています。大矢正夫から大阪事件への参加を求められるのはほんの少し後のことですが、この時期の透谷の政治運動とのかかわりを示す貴重な証言となっています。
49 石阪公歴の「天縦私記」 1884年7月始め 旧西城千鶴子氏蔵(色川大吉氏所蔵)
東京遊学中の公歴の日記・雑記です。この中にも、一八八五年(明治一八)六月に公歴と門太郎が連れ立って野津田村の石阪邸を訪問し、二人が京都・北陸の旅に出かけ、中途挫折したことなどが記されています。
50 〔復刻版〕大阪事件への不参加についての回想 「三日幻境」『女学雑誌』甲の巻第325号、1892年8月13日刊 町田市立自由民権資料館
「三日幻境」は、透谷が「希望(ホープ)の故郷」と呼んだ南多摩郡上川口村を七年ぶり四度目に訪問したさいの紀行文ですが、このなかに三度目の苦渋に満ちた川口行きについて回想されています。大阪事件の資金を集めるために非常手段(強盗)を決意した大矢正夫から参加を要請され、頭を剃り杖をついて断わりにいった様子が記されているのです。生死を誓った義友への裏ぎりは、重い「苦獄」となってかれをさいなむことになるのです。
51 大阪事件の「公判廷之図」 『大坂国事犯公判傍聴筆記』1887年(明治20)8月刊より
町田市立自由民権資料館
「大阪事件」と呼ばれることになる事件は、一八八五年(明治一八)春にスタートした自由党系急進派が起こした最大規模の専制政府打倒計画でした。ただ「加波山事件」などとは違って、朝鮮の開化派を支援してクーデターを決行し、朝鮮政府を改革して朝鮮の宗主国である中国との緊張を作りだし、その機に乗じて日本国内の政権奪取もおこなう、という壮大な冒険主義的計画でした。発覚し、指導者が大阪で逮捕されたことから「大阪事件」と呼ばれています。大矢正夫は、この事件の資金調達のために強盗に加わり、また朝鮮への渡航壮士の一人でもありました。多くの関係者は、国事犯として裁かれましたが、大矢は強盗罪で処罰され、出獄は一八九一年(明治二四)一二月になってからでした。
52 『景山英女之伝』の表紙 1887年(明治20)8月刊 町田市立自由民権資料館
大阪事件に参加した唯一の女性で、日本のジャンヌ・ダルクと呼ばれました。神奈川県へもオルグに訪れ、大矢正夫と親交の深かった愛甲郡荻野地方(現厚木市)の民権家も何人か計画に参加することになります。
53 〔複写写真〕透谷の義友 大矢正夫肖像 『自由党大阪事件』(1933年4月刊)より
文久3年11月6日(1863年12月16日)〜1928年(昭和3)7月13日
高座郡栗原村(現神奈川県座間市)の出身。自由党系の急進派の一人で、北村透谷の親友です。病気のために加波山事件に行き遅れ、一八八五年(明治一八)の大阪事件に加わります。透谷を大阪事件に誘ったのは、この大矢正夫です。出獄後、野津田の凌霜館や石阪邸にも滞在しました。写真は、大阪事件で逮捕されたときに撮影されたものです。
54 〔複写写真〕加波山事件を描いた新聞挿絵 「自由燈」1884年(明治17)10月10日号
多摩近代史研究会提供
自由党系の急進派がもくろんだ圧制政府打倒の武力蜂起は、いくつか計画されていましたが、一八八四年(明治一七)九月の「加波山事件」は、規模が小さいとはいえ、一六人が爆烈弾で武装し警官隊と交戦するという衝撃的事件でした。もともとは、各地の急進派を結集して大規模蜂起をもくろむ計画で、大矢正夫らも計画の指導者と連絡を取り合っていました。大矢正夫は、病気でこの計画に加わることができず、大阪事件にのめりこみます。北村門太郎は、この事件の失敗から、革命の時がめぐり来たっているという「土岐 運 来」[ときめぐりきたる]の認識から、「世運傾頽」の状況認識に落ちこんでいきます。
55 金子虎之助の「雑記録 完」 1885年(明治18)1月始め
津久井郡津久井町・奈良雅之氏
透谷の処女詩集『楚囚之詩』を所持していた金子虎之助(のち八木姓、さらに奈良姓)の雑記帳です。相模国高座郡上溝村の出身で、南多摩郡小山村の誠敬学校(現町田市立小山小学校)の教員、東京での教員嘱託を経て、一八八四年(明治一七)には東京府師範学校へ入学し、翌年一一月には西多摩郡の小学校へ勤務しています。その後、小山小学校(町田)や石川小学校(横浜)、津久井の小学校へ奉職します。この雑記帳は、在京中のもので、地誌的な記事の抜き書きや、英学校、その他の学校案内、市内の小学校校長名簿、などが目にとまります。また壮士の心情を綴った漢詩も記されています。
56 金子(八木)虎之助の授業用雑記録 明治20年前後 津久井郡津久井町・奈良雅之氏
透谷から『楚囚之詩』を贈られたと推定される虎之助(寅之助・乕之助)の、小学校教授用の雑記で、「小学問答雑記 完 金子寅之助」と「小学作文題案 明治十九年丙戌二月日 八木生」の二冊です。
|
| □ |
| 【7、石阪公歴との交友−民権青年のアンビション】 |
| □ |
|
57 〔複写写真〕若き日の石阪公歴の肖像
鎌倉市・堀越真一氏(町田市立自由民権資料館所蔵)
慶応4年1月26日(1868年2月19日)〜1944年(昭和19)年8月
多摩郡野津田村(町田市野津田町)の出身。自由民権運動の指導者だった石阪昌孝の長男。北村透谷と結婚した石阪美那の弟でもあります。在京の若き民権家たちのリーダーで、北村門太郎の同世代の友人です。一八八六年(明治一九)一二月二日に商業実地研究を目的に渡米しましたが、西海岸で日本政府批判の新聞を発行し、のち開拓にたずさわりました。一九四一年(昭和一六)に日米戦争が始まると日本人捕虜収容所に入れられ、マンザナの収容所でなくなります。
58 土佐の地を踏んだ石阪公歴 1882年(明治15)9月23日付手記
与野市・西城崇士氏(町田市立自由民権資料館保管)
一八八二年(明治一五)九月、一四歳の公歴は大阪・京都を経て自由民権運動のメッカ・土佐の高知の地を踏みました。この旅で公歴は、自分の不勉強・不勤励を痛感したようです。最後には、「明治十五年九月廿三日、高知城下北奉公人町枕水書屋、南窓下ニ於テ記ス者也」とあります。
59 石阪公歴の「天縦自記」 1884年(明治17)8月14日夜
与野市・西城崇士氏(町田市立自由民権資料館保管)
野津田村の自宅で執筆された、公歴の“人生設計書”です。東京大学で政治・経済学を学び、諸国を遊歴して諸名士と交際し(10年間)、政治の理論と実際を比較して、自分の主義を著わした著書を世に問い(2年)、三年の後に政界に入り、政党を主宰して代議士となり、そして万国共議政府を建てて人びとに「真正ノ自由」をもたらす、と記していました。英雄的生涯への強いあこがれがみえますが、人びとの自由の実現を万国共議政府(当時“無政府主義”とも表現しました)にもとめているところなど、若き民権家・公歴の人間像をよく示しています。北村門太郎も、同じようなアンビションにとらわれていた時期がありました。
60 〔複製〕北村門太郎の在米石阪公歴宛書簡草稿 1887年(明治20)12月16日
鎌倉市・堀越真一氏(日本近代文学館保管)
石阪公歴は商業学校への入学を目指し、1886年(明治19)12月に渡米しますが、亡命民権家たちと共に旬刊の政論新聞「新日本」を発行し、さらに日本人愛国有志同盟を結成して激烈な日本政府批判をおこないます。門太郎は公歴から「新日本」を送られ、この手紙を書き始めました。しかし、時代の転換のなかで時代とどう立ち向かうかで公歴とずれ始めていた門太郎には、公歴への手紙を書き続けることはできなかったようで、手紙は中途で終わっています。
61 〔複写写真〕公歴とその同志たち 1885年(明治18)1月30日撮影
与野市・西城崇士氏(町田市立自由民権資料館保管)
裏には「岡、佐藤、吉倉三氏及天縦」とあります。岡は岡三造(岡山人)、吉倉は吉倉汪聖(加賀人)で、ともに東京大学入学を志す仲間で、このころ(あるいは直後)、三人で本郷の寺へ寓居していました。この直後、吉倉汪聖とは常総旅行へ出かけています。佐藤は明治十七年読書会のメンバーである佐藤琢治と考えられますが、はっきりしません。
62 渡米直前の公歴の村野常右衛門宛書簡 1886年(明治19)9月27日付
野津田町・村野順三氏(町田市立自由民権資料館保管)
大阪事件で拘留されていた村野常右衛門にあてた、石阪公歴の書簡です。家計の回復のためにアメリカに渡って商業の実地研究をしてくる、と書いています。しかし渡米後の公歴は、在米の民権青年らと激烈な日本政府批判の新聞を発行していました。
63 公歴のアメリカ便り第一報 1886年12月26日と推定 船橋市・渡瀬信正氏
父の石阪昌孝宛。日付はありませんが、一八八六年(明治一九)一二月二六日の執筆と考えられます。サンフランシスコまでの船旅の様子、サンフランシスコやオークランドでの異国・文明体験などが、よくわかります。これを読むと公歴は、ケーブルカーやエレベーターなどの文明の利器に関心を寄せるだけでなく、食堂に集まって会食する様子、職業によって高卑をつけず美服を着用していること、門を卑しく家を高くする家屋の構造、鍵一本で家を閉じ家族全員が家を空けること、一家あげて他家の客となりプレゼントを交換して楽しむことなど、日本と本質的にことなるアメリカ社会の特質に注目しています。ほどなく公歴は、商業学校を卒業し、実地研究を積んで、アメリカ・ヨーロッパをまわり、貿易・外交・政治の形勢について学ぶという壮大な希望を実現しないままに、日本政府批判の志士的行動に飛び込むことになります。政治の世界へ再び飛び込むことによって公歴が失ったものは、たいへんに大きかったようです。
64 〔写真〕石阪公歴の墓 アメリカ合衆国コロラド州ボーダーの共同墓地
色川大吉氏撮影
石阪公歴は、日米戦争さなかの1944年8月、マンザナの日本人捕虜収容所で亡くなりました。遺骨は数年後、富樫氏が引き取ってコロラド州ボーダーの共同墓地に葬られました。
|
| □ |
| 【8、老畸人秋山国三郎との出会い−三日幻境の世界】 |
| □ |
|
65 〔写真〕透谷が生涯尊敬し続けた秋山国三郎 八王子市・秋山国子氏
文政11年8月1日(1828年9月9日)〜1903年(明治36)11月25日
北村門太郎(透谷)が多摩の自由民権運動に参加するなかで知りあった、南多摩郡上川口村(現八王子市上川町)の秋山国三郎は、透谷の思想形成に大きな影響を与えた人物です。透谷は、一八八四年(明治一七)秋から翌春にかけて上川口村の秋山邸で、国三郎と、そして民権運動の同志・大矢正夫と起居をともにしました。透谷の作品「三日幻境」は、その思い出の地を七年ぶりの一八九二年(明治二五)に訪ねたさいの紀行文です。そこには、老畸人・秋山国三郎が、日本の民衆のなかの良き伝統文化の体現者として、理想化された形で描かれています。
66 北村門太郎の秋山国三郎宛明治26年の年賀状 1893年(明治26)1月2日付
八王子市・秋山国子氏
南多摩郡川口村上川口(現八王子市上川町)の秋山国三郎宛年賀状です。多摩で発見された透谷自筆資料としては、もっとも古いものです。
67 複製版の秋山国三郎宛賀状 1957年(昭和32)5月16日発行 八王子市・橋本岩雄氏
多摩での北村透谷への注目は、橋本義夫氏を中心にした地方文化研究会の手で、一九五四年の透谷六〇年祭に向けて始まりましたが、「幻境の碑」の建立は地元民の反対にあって中断してしまいます。一九五七年には橋本岩雄氏らも参加し、透谷命日に国三郎宛透谷賀状を多摩文学史資料「北村透谷賀状 秋山国三郎宛(明治二十六年)」として発行し、さらには秋に幻境碑の碑面が削られたとはいえ、内部生命の碑として建立されました。
68 〔復刻版〕秋山国三郎の人となりを詳細に紹介した「三日幻境」 『女学雑誌』甲の巻第325号、1892年8月13日刊 町田市立自由民権資料館
「三日幻境」は、透谷が「希望(ホープ)の故郷」と呼んだ南多摩郡上川口村を七年ぶり四度目に訪問した透谷の紀行文ですが、ここには透谷によって発見された秋山国三郎の人となりが描かれています。
69 〔写真〕秋山国三郎の刺繍になる車人形の衣装
八王子市・瀬沼時雄氏(多摩近代史研究会写真提供)
車人形は、通常三人で操る人形を、台車に乗って一人で操る人形浄瑠璃で、武州地方で幕末から明治にかけて盛んにおこなわれました。金糸で「自由」と刺繍した打ち掛けをで演じられたのは、佐倉宗五郎などの義民ものだったと言われます。
70 秋山国三郎の俳句集「安久多草紙」 1889年(明治22)10月始め 八王子市・秋山国子氏
透谷は秋山国三郎を、“徳川時代の平民的理想”の体現者として評価していました。義太夫を良く語り、書家としての力をもち、天然理心流の剣客でもあり、そして俳道を明らかにする人物、と透谷は国三郎を見ていました(「三日幻境」)。この「安久多草紙」には、三五三〇句がぎっしりと書き込まれており、晩年の心境を見ることができます。
71 秋山国三郎の刀剣鑑定資料「新刀形銘鑑」 1894年(明治27)12月補刻
八王子市・秋山国子氏
透谷は国三郎を、豪侠をもって自ら任じ、あるときには剣を挺して武人の暴横にあたり、危道を踏み死地に陥ったことも数知れないと表現し、さらに晩年は「刀剣の鑑定にぬきんで」ていた、ともいっています(「三日幻境」)。国三郎は、すでに弘化三年(一八四六)に天然理心流の免許皆伝を受けていました。満年齢で一七歳の時です。
72 〔写真〕秋山国三郎の墓 1909年(明治42)11月15日建立 八王子市上川町円福寺
亡くなって六年目に建立されました。
|
| □ |
| 【9、“恋愛は人生の秘鑰なり”美那との恋愛−透谷文学の前提U】 |
| □ |
|
73 〔写真〕自由民権の碑 透谷・美那子出会いの地 1985年(昭和60)11月3日除幕式 町田市野津田町の石阪邸跡
民権運動のリーダー、町田市野津田町暖沢の石阪昌孝の屋敷跡には、井戸も塀も残っていませんが、今は、「自由民権の碑」が建っています。ここは、ちょっと大げさにいえば、日本の近代文学の運命を決定づけたともいえる北村透谷と石阪美那の出会いの地であり、その出会いを記念して建てられたのがこの碑です。門太郎(透谷)と美那が出会ったのは、美那の記憶によれば、一八八五年(明治一八)の夏休みだと言います。青い実をつけた柿の木に登っていた思索型の青年が、美那が見た最初の透谷でした。美那と透谷が再会し、激しい恋愛に陥るのは、二年後のことでした。
74 〔複製〕透谷手記「一生中最も惨憺たる一週間」 1887年(明治20)8月21日夜(ないしは翌日) 鎌倉市・堀越真一氏(日本近代文学館保管)
透谷の美那にたいする恋愛感情は、八月一六日から最高潮に達しますが、その後二一日までの一週間は、愛情の深さと断念の間をさまよう心理的葛藤の一週間でした。透谷は結局、東京龍岡町の石阪邸の美那の部屋で、朝方まで議論するという体験を二晩もちながら、断念の決意をして横浜へおもむくのです。
75 〔複製〕北村透谷の石阪美那宛書簡 1887年9月3日付
鎌倉市・堀越真一氏(日本近代文学館保管)
「不幸の極点とも覚しき地獄の境界に陥」った“惨憺たる一週間”のあと、透谷は美那との恋愛を断念しますが、その心理的葛藤を美那宛にしたためた書簡です。
76 〔複写写真〕新婚当時の透谷・美那夫妻 1889年(明治22)撮影か
鎌倉市・堀越真一家所蔵
一八八九年の撮影なら、美那二三歳、透谷二〇歳ということになります。二人は、一八八八年一一月三日、京橋区弥左衛門町の自宅で田村直臣(日本基督教会所属の数寄屋橋教会牧師)の司会で、キリスト教式で挙式をあげました。透谷・美那の結婚について、石阪家がどのように対応したかは、承諾説と反対説があってはっきりしません。
77 共立女学校へ入学直後の吉野りうの有田泰之助(兄)宛書簡 1887年(明治20)4月27日付 三鷹市・吉野泰平氏
吉野りうは、北多摩郡野崎村の吉野泰三の娘で、石阪美那と同様、日尾塾から共立女学校へ転じていました。共立への入学は、一八八七年(明治二〇)四月で、美那も在学中でした。りうは、お美那さんと同校なので、知人がいてたいへん都合がよい、と記しています。
78 共立女学校での美那の評判を記した吉野りうの家族宛書簡 1889年(明治22)3月4日付 三鷹市・吉野泰平氏
石阪昌孝の政治的な同志で、のちには対立を深める吉野泰三の娘りうは、美那が共立女学校に在学中の一八八七年(明治二〇)四月に共立女学校に入学します。二年後のこの手紙には、透谷と結婚した美那の学校での評判が記されています。すでに前年の一八八八年(明治二一)一一月、美那と門太郎は大恋愛の末に結婚していましたが、美那は年上で、婚約者もおり、透谷は没落士族の長男で生活のあても無いという状態でしたから、世間の目は冷たいものがありましたが、その冷たさは、ミッションスクールの中でも同様だったことがよくわかります。
79 美那から博覧会見物に誘われた吉野りうの家族宛書簡 1890年(明治23)3月28日付
三鷹市・吉野泰平氏
吉野りうは、しばしば北村美那と書簡のやり取りをし、また共立女学校(横浜)の寄宿舎と自宅(北多摩郡野崎村)との往復の途中、北村家に立ち寄っていたようです。一八九〇年三月にりうは、美那から博覧会見物を誘われていたことが、この二八日付書簡でわかります。
80 インフルエンザにかかった透谷一家についての吉野りうの家族宛書簡 1890年5月10日付 三鷹市・吉野泰平氏
吉野りうが、横浜の寄宿舎へ戻る途中に北村家を訪ね、北村一家がインフルエンザにかかったことを知ったことなどが記されています。
81 〔複写写真〕娘の英子を抱く透谷 1893年(明治26)4月撮影、透谷24歳、英子10か月
鎌倉市・堀越真一氏
英子[ふさこ]が生まれたのは、1892年(明治25)6月1日ですから、10か月ころの英子ということになります。このころの透谷・美那夫妻の生活については、島崎藤村の小説『春』に詳しく描かれています。
82 〔複写写真〕英子を抱く美那と妹の登志 1893年(明治26)ころ
透谷・美那夫妻の長女英子が生まれたのが、一八九二年(明治二五)六月一日ですから、翌年撮影と思われます。左端が美那で、抱かれているのが英子、左から二人目、椅子に座っているのが美那の妹の登志[とし]です。
83 〔複写〕透谷の死の新聞報道 1894年5月17日 国立国会図書館マイクロより
「やまと新聞」「都新聞」の記事です。美那は、“自殺した若き文学者の妻”を背負って生きていくことになります。
84 〔複写写真〕美那の婚約者だった平野友輔
安政4年1月9日(1857年2月3日)〜1928年(昭和3)4月3日
藤沢の人。東京大学医学部出身で、八王子に医院を開業する(一八八三年)かたわら演説会を活発に企画するなど、三多摩の自由民権運動の活動的なリーダーでした。石阪昌孝の信頼も厚く、長女美那とは婚約関係にありました。“婚約者を奪った”ということか、透谷は平野友輔に負い目を感じていたようで、第一回目の自殺未遂の直前、一八九三年(明治二六)の一一〜一二月ころ、大矢正夫に伴われて藤沢に平野を訪ねたという有名な話が残っています。
85 平野友輔の吉野泰三宛葉書 1888年(明治21)1月6日付 三鷹市・吉野泰平氏
獄中で発狂し、出獄して治療していた石阪昌孝を、一八八八年(明治二一)正月に吉野泰三が見舞ったため、平野友輔が吉野に病状を書き送った葉書です。平野友輔は、石阪美那の婚約者で、この時期、横浜の石阪邸で昌孝の治療にあたっていました。このころ、北村門太郎も昌孝を見舞っていますので、門太郎も友輔と美那とここで出会ったかもしれません。
86 平野友輔の診察広告 1886年(明治19)7月付
野津田町・村野順三氏〔町田市立自由民権資料館保管〕
相州高座郡長後村(現藤沢市)の羽根沢屋方での、開院広告です。
87 〔複写〕八王子自由政談演説会の景況記事 「武蔵野叢誌」第15号、1884年(明治17) 6月7日 覆刻版『武蔵野叢誌』より
「武蔵野叢誌」の雑報欄に載った演説会中止の記事です。五月一六日と、二二〜二四日、二六日に八王子の本三座で開かれた演説会の様子が報じられています。平野友輔が中心になって開いた連続の政談演説会で、警察の中止・解散命令を受けるなかでおこなわれました。当時は、言論の自由はなく、演説会場に臨席する警察官によってしばしば演説の中止や演説会の解散が命じられ、弁士が拘引されて長期の演説禁止が科せられることがありました。
88 〔複写〕八王子自由政談演説会の広告 「自由新聞」1884年(明治17)5月13日号
覆刻版『自由新聞』より
|
| □ |
| 【10、美那の生涯−残された妻の闘い】 |
| □ |
|
89 〔複写〕賞誉生となった美那と公歴 1875年(明治8)9月2日記事
復刻版『横浜毎日新聞』より
学業奨励のため優秀な生徒を表彰する制度が設けられましたが、第八大区の賞誉生一九人のうちに、知新学舎(のち野津田学校)の石阪美那、公歴兄弟の名がありました。美那の学問好きに配慮したのか、一八七七年(明治一〇)には、東京下谷の和漢塾日尾女塾に入塾することになります。
90 石阪美那の「決意書」 年不明(明治10年代中ころか) 与野市・西城崇士氏
美那が、五か所にわたって石坂の印鑑で封緘し、表の左下隅に「石坂ミな子」と署名した手製の封筒に入れられていた自筆文書です。内容から「決意書」と呼ばれ、一八八四年(明治一七)ころの執筆と推定されています。女性として道にかなった父母や婚家への孝心のあり方について論じたもので、儒教的な修身論・孝心論となっています。美那はこの後、和漢学の日尾塾から先進的なミッションスクール共立女学校に転じ、美那自身も透谷に先立って精神革命を体験することになります。
91 〔複写〕石阪美那の共立女学校での卒業演説 「毎日新聞」1887年(明治20)7月16日号
復刻版『毎日新聞』より
美那が横浜のミッションスクール共立女学校へ入学したのは、一八八六年(明治一九)のことでした。その美那が、和漢学科の卒業(一八八七年七月一四日)にあたって、「自由を張るに女子も亦責任あり」と題する演説をおこなったことが、新聞で報道されました。美那が、透谷と激しい恋愛に陥るのは、この直後の夏休みのことでした。
92 共立女学校卒業式の模様 『女学雑誌』第68号、1887年(明治20)7月23日刊
東京大学明治新聞雑誌文庫 町田市立自由民権資料館
七月一四日の卒業式で、美那が「自由を張るに女子も亦責任あり」と題して演説したことが、報告されています。「毎日新聞」も同様の雑報記事を載せましたが、『女学雑誌』は、七人の演説・朗読に対して、雄弁には関心したけれども漢語が多いと感想を述べています。
93 〔複写写真〕和服姿の美那 明治30年前後の撮影か
94 〔複写写真〕渡米直前の北村・石阪家の人びと 1899年(明治32)6月の撮影、美那33歳、英子7歳 与野市・西城崇士氏(町田市立自由民権資料館保管)
95 〔複写写真〕渡米直前の北村美那と妹の登志 1899年(明治32)6月28日撮影
船橋市・渡瀬信正氏
向かって左側、洋装が美那です。和服姿が、妹の登志です。裏書には、北村令姉が東京を辞して遠く北米合衆国におもむくにあたって、別れをおしんで妹とともに撮影した、とあります。
96 北村美那の卒業証書 1906年(明治39)6月
鎌倉市・堀越真一氏(町田市立自由民権資料館保管)
美那子は透谷の死後、一八九九年(明治三二)六月にアメリカに渡り、ぶどう摘みのアルバイトをしながら苦学し、一九〇六年(明治三九)六月にはオハイオ州立デファイアンス・カレッジを成績優秀で卒業し、賞与の金時計とともにバチュラー・オブ・アーツ(文学士)の称号を得ました。
97 〔複写〕帰国した美那へのインタビュー記事「海外苦学の女史」 「国民新聞」5377号、1907年(明治40)2月26日 国立国会図書館マイクロより
帰国直後の北村美那へのインタビュー記事です。帰国は二月二一日、足掛け九年のアメリカ生活でした。父昌孝が亡くなったのは、一月一三日ですから、父の死に目には立ち会うことができませんでした。たまたま帰国していた公歴は、立ち会うことができ、また帰国した美那とも久しぶりの面会を果たしてアメリカに戻っていきますが、このインタビューの席にも、公歴は同席していました。
98 美那が開いた英会話夏期講習会 明治終わりか
与野市・西城崇士氏(町田市立自由民権資料館保管)
一九〇七年(明治四〇)一月に帰国した美那は、翌年から豊島師範学校の英語の嘱託教員となり、後には東京府立品川高等女学校の英語の専任教諭となりました。「英会話夏期講習会」は、帰国後まもないころに開いた会話講習会と考えられます。
99 美那の名刺 昭和初め 野津田町・村野順三氏(町田市立自由民権資料館保管)
野津田村の出身で石阪昌孝の後継者だった政友会の大物政治家・村野常右衛門が病に倒れて東京帝国大学病院に入院したのは、1927年(昭和2)6月18日でした。見舞い客の中には、北村美那の名もありました。
100 北村美那の履歴書(部分) 明治終わり、ないし大正初め 与野市・西城崇士氏
残されているのは、この一枚のみです。
101 美那 晩年の日記帳 1932年(昭和7)〜1934年(昭和9) 与野市・西城崇士氏
美那が娘の英子[ふさこ]の家(堀越家)に同居していた、晩年の日記です。一九三三年(昭和八)二月初めの項には、悲哀に満ちた文章があります。「自分か此世に存在する事は実につらく思ふ。北村と死別後、北村御両親は他に嫁する様、子供は引受た、わるい様には為ぬから安心せよと仰られた。然るにがんぜなき児、乳子か成長して両親共ないと知つたら如何に憾[うら]み悲しむであろふ、せめて母だけにても居てくれたらと思ふ時か来るだろふとのみ、他に何の志慮もなく、石阪の両親に乞つて籍だけ置ていたゞきたいからと願つたのが是か非か判別に困しむ。自分の一生は無益にのみすごされたかと、頭は深く胸中にうづもる。あらん限り生命をとしても身体で働らける事をして罪をつくのひたひ。誰一人同情者はない。我儘をなしつくして父母にも心配をかけた此身を憾む。唯一人死にゆく時を待つのみである」。また四月三〇日の項には、「透谷選集の江戸時代をよむ」とあり、五月一六日の項には、小田原の透谷碑除幕式に、娘の英子、孫の愛子ともども出席した様子が記されています。
102 〔写真複写〕バイオリンを弾く登志 船橋市・渡瀬信正氏
一八八八年(明治二一)九月に登志は、東京音楽学校に入学し、本科専修部でバイオリニストをめざして四年間勉強しました。この勉強が、職業人としての生涯を切り開く足場作りになりました。登志が東京音楽学校に入学するにあたっては、透谷も協力を惜しみませんでした。
103 登志の履歴書 船橋市・渡瀬信正氏
登志は、一八七二年(明治五)六月に昌孝の次女に生まれ(明治三年と記す場合もあり)、姉の美那子と同様に東京下谷の日尾直子塾に学びましたが、一八八五年(明治一八)から麻布の東洋英和女学校に転じ、八八年からは東京音楽学校(現東京芸術大学)のバイオリン専修部で学びました。卒業後は私立明治女学校、横浜市立老沼小学校の音楽教員をし、自宅でも音楽教授をおこなっていました。父親の昌孝には、教育への熱い思いがあったようで、美那にも登志にも高い教育を身に付けさせていました。
|
| □ |
| 【11、北多摩郡の政治指導者 吉野泰三との親交−透谷新史料発見の波紋】 |
| □ |
|
104 北村門太郎(透谷)の石阪昌孝宛書簡 1888年(明治21)1月24日付
三鷹市・吉野泰平氏
のちに北村門太郎と結婚する石阪美那(昌孝長女)の吉野泰三宛書簡(一月二七日付)に同封されていたのが、一九九二年一二月に発見されました。昌孝が、書簡の書かれる前年の一八八七年暮の県会騒動をきっかけにした拘引事件で、留置場で「発狂」しますが、釈放されて療養中の昌孝を吉野と娘のりうが見舞ったため、美那が父に代わって礼状を書き、このなかに、門太郎の昌孝宛書簡が同封されていたのです。美那が書いた裏書には、放庵(石阪昌孝)から雲外(吉野泰三)宛となっています。壮士の横暴の目立った神奈川県会騒動を契機に、透谷が壮士的運動の頂点にいた石阪昌孝を、「英雄の末路」ときびしく批判したのは、一月二一日付の美那宛書簡においてでした。その三日後に昌孝宛書簡が書かれたのですが、「発狂」した昌孝と「脳病」の透谷を対座させた内容はきわめて興味深く、俗社会のごみための中で戦わなければならない哀れさと、“もぐらもちの如き政略”で社会に向いあおうとする透谷の“さとり”など、この時期の透谷の生き方にかかわる重要な記述があります。また、すでに美那との間に激しい恋愛感情を体験し、求愛と断念のはざまでゆれ動いていた透谷が、美那の婚約者の名(平野友輔)をあげている点も興味深い部分といえましょう。
105 吉野泰三の北村門太郎宛書簡草稿 1889年(明治22)11月6日付 三鷹市・吉野泰平氏
「尺牘[せきとく]案」より。この書簡から、九月に結成された「北多摩郡正義派」の存在を知った北村門太郎(透谷)が、吉野泰三にあてて会の趣旨を尋ねたことがわかります。泰三が、“文学士の応援”として喜んでいるところをみると、透谷の書簡が、正義派にたいしてたいへんに好意的だったことが推測され、この時期の透谷の政治的・社会的関心の質に光を当てる、きわめて重要な内容と考えられます。とくにこのころ透谷は、日本における平和運動の最初といわれる「日本平和会」の結成に関与し、さらに翌年初めにかけて、困苦せる民衆の現状にまったく無頓着な文学者・政治家・宗教者にたいしてきびしい批判論説を書いています(「当世文学の潮摸様」「時勢に感あり」「泣かん乎笑はん乎」など)。吉野家からは、この返書のみで、返書をしたためるきっかけとなった一一月初めと推定される透谷書簡は、残念ながらまだ発見されていません。
106 奥州行脚中の門太郎の吉野泰三宛葉書 1892年(明治25)4月13日付
三鷹市・吉野泰平氏
福島県の飯坂で投函されました。透谷が、三月一七日に、麻布クリスチャン教会の宣教師ダヴィッド・ジョンスの通訳として、奥州伝導旅行に出かけたおりの旅先からの葉書です。四月一〇日に松島に到着し、福島方面へ向かいましたが、“旅に病み”帰京したのは二三日でした。したがってこの葉書は、飯坂温泉で療養中にしたためたことになり、透谷と吉野泰三の交流の深さを推測させます。俳句と和歌が記されていて、資料価値は高いと考えられますが、東京には変化(ばけ物)どもが縦横(跳梁)しているとの文面もあって興味引かれます。この年二月の第二回総選挙(選挙大干渉)の直後のことで、吉野もその政争のまっ只中にいたのですから、そのことと関係があるのかもしれません。
107 北村門太郎の吉野泰三宛年賀状(三点) 1891年(明治24)元旦、92年1月1日、93年1月3日 三鷹市・吉野泰平氏
一八九一年(明治二四)元旦付は、箱根塔ノ沢から発信されたものです。透谷は、前年一二月二七日から正月三日まで、遠い親戚にあたる温泉旅館に滞在していたことが、すでに知られています。一八九二年(明治二五)一月一日付は、埼玉県の大宮郵便局管内の消印があります。「恭賀新年」という文面だけでなく、「中仙道大宮 温泉水清く 俗塵遠き所」とあって、透谷の心情に触れる可能性をもつ賀状です。一八九三年(明治二六)一月三日付は、東京西ノ久保の消印です。透谷と吉野泰三の交流の継続を知ることができます。
108 吉野泰三の石阪昌孝宛返書 1888年(明治21)1月29日付
浦安市・小野太起子氏(町田市立自由民権資料館所蔵)
自由民権資料館には、石阪昌孝宛の書簡貼り継ぎ一巻が、小野太起子氏から寄贈されていますが、この中の吉野泰三書簡に、「守少楼の小僧」の書簡を読んで感服したとの記述があります。吉野は、「守少楼の小僧」の本名を知らないままに内容に感心、刺激されて、石阪昌孝宛に感想を書きつづっていたのです。吉野は、はきだめ社会とどう関係を取り結ぶか(青蝿飛びまわる政治社会とどうかかわるか)を、透谷書簡を受けた形で議論しており、きわめて興味深い書簡となっています。
109 〔複写〕神奈川県会に対する「要求書」 1887年(明治20)12月22日付
三鷹市・吉野泰平氏
11月から12月にかけて、神奈川県の自由民権運動が分裂するきっかけとなる「神奈川県会騒動」がおこります。三大事件建白運動に不熱心で、県会議員補欠選挙の無効要求に反対する自由党系県会議員を、「軟弱議員」として糾弾・制裁し、県会の議事を妨害するという事件でした。軟弱として批判された議員のなかには、青木正太郎(南多摩郡相原村=現町田市)や内野杢左衛門(北多摩郡蔵敷村=現東大和市)のような有力な自由民権家が含まれていました。自派の議員に対してまで暴力的制裁をおこなう、壮士主導の運動への転換を示す事件でした。この要求書は、この運動の過程で、県議会の「粛正」のために自由党系壮士から提出されたものです。
110 〔複写〕「北多摩郡正義派規約」 1889年(明治22)9月17日付 三鷹市・吉野泰平氏
多摩の自由民権運動をともに担ってきた石阪昌孝(町田市)と吉野泰三(三鷹市)は、明治二〇年代にはいると対立を深めますが、吉野が石阪派にたいする批判勢力を結集して「北多摩郡正義派」を組織することにより、対立は一挙に深刻化します。吉野にとっての最大の批判点は、石阪派・自由党系の壮士的運動に向けられており、その点で北村門太郎(透谷)の立場と共通し、透谷は正義派支援の書簡を吉野泰三に送ります。
111 〔複写〕早い時期の「北多摩郡正義派規約」 1889年(明治22)9月17日付
東大和市・内野秀治氏
規約は、現在二種類が伝えられています。首唱者の数が大きく違います。
112 〔写真〕錦絵「おっぺけぺー歌」 1891年(明治24)刊行 東京都立中央図書館
春暁画「川上の新作 当世穴さがし おっぺけぺー歌」。
一八八九年(明治二二)、「自由童子」を名乗る川上音次郎の演じる書生芝居(書生節)が東京に進出し、「権利幸福きらひな人に、自由湯をば飲したい、オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポーポー」と歌って人気を集めました。明治二〇年代の、青年壮士たちの運動を象徴する錦絵です。
113 〔写真複写〕石阪昌孝
天保12年4月22日(1841年6月11日)〜1907年(明治40)1月13日
多摩郡野津田村(現町田市)の生まれ。幕末に名主となり、農兵隊の結成や、新選組・甲陽鎮撫隊への呼応など、幕末・維新期の激動に身を投じますが、明治初年に戸籍区戸長、大区区長などを経験し、初代の神奈川県会議長となります。早くから地域の教育運動を組織し、常に地域民権運動の先頭に立ちました。明治二〇年代に入るころから、北多摩郡の吉野泰三・内野杢左衛門らのグループと対立する若手民権家(壮士)の領袖的存在となり、吉野派との対立をしだいに深めていきます。一八九〇年(明治二三)の国会開設にあたり衆議院議員となり(四期)、九六年(明治二九)には群馬県知事に抜擢されました。石阪美那・公歴姉弟の父です。北村透谷の義父でもあります。
114 〔写真複写〕吉野泰三
天保12年1月2日(1841年1月24日)〜1896年(明治29)7月23日
多摩郡野崎村(現三鷹市)の里正(名主)の家に生まれ、医業を継ぎました。一八七九年(明治一二)に神奈川県議会が開かれると、北多摩郡から選出され、七期務めています。一八八〇年ころから自由民権運動に参加し、東京で開かれる国会開設運動の会合や自由党結成準備に関与するとともに、北多摩郡の有志を結集して演説会を始め、一八八一年(明治一四)一月には、「自治改進党」を結成しました。石阪昌孝と並ぶ県下の民権運動指導者で、八三年には石阪とともに自由党常議員となります。強盗を決行した大阪事件(八五年)、壮士の横暴が目立った神奈川県会騒動(八七年)以後、県内の自由党主流にたいする批判を強め(壮士批判と急進的・個人主義的自由主義批判)、八九年(明治二二)九月には「北多摩郡正義派」を結成します(北村透谷と吉野泰三のつきあいが始まるのは、このころからと推測されます)。第一回衆議院選挙(一八九〇年七月)には、北多摩郡正義派から立候補しましたが、自由党系候補の石阪昌孝・瀬戸岡為一郎に敗れ、自由党系との対立は決定的となりました。一八九二年(明治二五)二月の第二回総選挙(大干渉選挙)でも自由党と対立し、再び敗北します。
|
|
115 〔写真〕「標[しな]」の会による 蓬莱曲 公演 1994年2月17〜20日 新宿シアター・モリエール 「標」の会提供
作/北村透谷 脚色・演出/福岡詩二
読む戯曲(詩劇)の性格が強い「蓬莱曲」は、上演困難とされ、長い間舞台にのせられることはありませんでした。その「蓬莱曲」が舞台上で演じられたのは、透谷没後70年の1964年(昭和39)でした。製作・名田房代、舞台は俳優座劇場でした。その後も、名田(鈴木督代)氏の蓬莱曲公演の意欲は続き、1979年(昭和54)には新宿文化センターで、また1985年(昭和60)11月には、町田市野津田町の石阪昌孝邸跡(北村透谷・石阪美那出会いの地)で、「自由民権の碑」の建立除幕に際して野外公演されました。今年(94年)2月の舞台は、没後百年にさいして企画されたもので、四回目の舞台でした。荒寥とした蓬莱山を簡素の舞台であらわし、主人公柳田素雄の独白部分を語り部にまかせて素雄役はパントマイムで演じるなど、新
しい試みに満ち、採点のきびしい透谷研究家からも高い評価をうけました。
柳田素雄/高瀬右光 鶴翁/矢田稔
露姫・仙姫[やまひめ]/山村ひとみ 大魔王/鈴木督代
|