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石阪公歴のアメリカ便り
−公歴・美那・透谷関係史料の紹介−
 
鶴巻 孝雄
 
1994年5月17日から6月16日まで、町田市立中央図書館を会場に開場に開催した
「北村透谷展―透谷文学と多摩の人びと」(企画担当・鶴巻孝雄)の
報告集『民権ブックス7 北村透谷と多摩の人びと』(1995年3月15日刊)
に収録した史料紹介です。
 
一 〈アメリカ体験〉研究の視座
 
 一八八七(明治二〇)年一二月中旬、北村透谷は、アメリカで発行された邦字新聞「新日本」を受けとっている。「僕は突然、新日本と云ふ者が飛び込んだに驚いた」とは透谷の言葉だが、こんにゃく版印刷だったからだろう、筆跡から透谷は、「亜米利加に寄留する男児之友」石阪公歴から送られてきたことを直感する。
 邦字新聞「新日本」は、アメリカに亡命した青年民権家たち六人(畑下熊野・石阪公歴・広田善朗・中島半三郎・田村政次郎・片庭趙作)が、サンフランシスコの対岸オークランドで、一八八七年九月八日に発行した旬刊新聞で、激烈な日本政府批判、悲憤慷慨調の民権論を満載した政論紙だった。以後かれらが中心となって「愛国有志同盟」を結成し(のち「日本人愛国同盟会」)、政論機関紙を、日本政府の持ち込み禁止処置に対抗して次々に発行していく。亡命運動家による最も初期の組織的な政治運動=民権運動として、研究者の評価はきわめて高い(1)。
 しかし透谷は、「新日本」を一読、とまどいを隠せなかった。一二月一六日に在米の公歴に宛て返信を書きはじめながら、結局書き続けることができず、草稿を翌年まで持ち越してしまう。「亜米利加に居て君は何を考へてるだろう」との透谷の問いは、時が移り、場所を遠くアメリカに移しながら、「志想を変ぜざる確固不抜の人」を再確認するだけで、「変らざる」「畏るべき友」にとまどわざるをえなかったのである。〈過去の民権家の亡霊〉(とは言い過ぎかもしれないが)に直面して、透谷の心境は複雑だったろう。それは、「国に尽し民に利せんと欲する者、時に応ずるの務を為さずして、却つて時に違ふの義を好まば、社界は如何なる顔を以て受け入れん」と、公歴の時代からの逸脱を惜しみながら、透谷自身は「時」と「世」とも一体感を持てずに闇を彷徨していたのだから、公歴への心境は屈折せざるをえないことになる。自らの出自たる自由民権運動を、思想的に克服できないでいた透谷がそこにいるのだが、その闇が透谷の公歴宛書簡に流れる〈悲哀〉の根拠であり、書簡執筆中断の理由なのだと推測されよう(2)。
 この透谷の悲哀から、石阪公歴をはじめとしたいわゆる「亡命民権家」と称される青年たちのアメリカ体験を、一度相対化してみることは必要なことだろう。〈民権〉や〈政治〉の確認を評価軸としてしまう民権研究の傾向は、かれらのアメリカ体験が持った幅広い可能性と深刻な限界の構造的な把握をないがしろにしてしまうことになる、と思うからである。
 幸いに、石阪公歴に関しては、公歴の妹の登志の子孫宅(船橋市・渡瀬信正家)から、渡米直後に父親の昌孝、両親、姉の美那に書き送った長文の書簡八点(および住所メモなど)が発見されている。公歴の渡米意図や渡米直後の生活、アメリカ体験の内実が明らかになるもので、史料的な価値はきわめて高い。ここには、「新日本」発行以前の公歴の素顔を見ることができる。アメリカへの率直な驚きがあり、将来に向かってのアンビションがあふれているのである。この書簡については、発見の直後に新聞報道され(「東京新聞」多摩版、一九九三年三月六日)、自由民権資料館でも展示公開したが、今回は発見の八点すべてを解読し紹介したい[史料A群を参照]。
 また、自由民権資料館の一九九三年度特別展示にさいし、三鷹市の吉野泰平氏所蔵史料を借用したが、文書の中に、在米桑港愛国同盟と日本愛国同盟倶楽部関係史料を見出したので、これも石阪公歴関係史料として紹介しておく[史料B群を参照]。
 さらに、今年度(一九九四年度)の特別展「北村透谷展−透谷文学と多摩の人びと」において展示した史料の中から、存在が知られるのみで全文をとおして読む機会の少ない、公歴・美那・透谷関係史料の数点を紹介しておく[史料C群を参照]。
 在米日本人の民権運動にかかわる研究は、研究者の関心を集めながらも、まだ史料的な限界が大きく、研究者一般が自己の歴史観をとおして言及するにいたっていないようにみえる。このささやかな史料紹介が、かれらの運動の理解を深める一助となればと思う。
 
二 公歴書簡八点(史料A群)
 
 石阪公歴が、アメリカ大陸のサンフランシスコに向けて横浜を出港したのは、一八八六(明治一九)年一二月二日だったが、公歴のアメリカからの便りは、今までの調査では、翌年(明治二〇年)の六月一四日付け書簡が最初である(3)。父昌孝の友人で、親戚同様の付き合いをしていた小野路村の小島鹿之助に宛たもので、滞米半年後の無事と勉強への意欲について近況報告していた。最初といっても、晩年の一九四〇年前後の姉美那宛の書簡数通を除けば、この小島鹿之助宛書簡しか発見されていなかったのだから、長い間、渡米直後の公歴を知る唯一の資料だった。
 そして、この書簡が唯一だったことが、公歴評価に微妙な影を落すことになる。公歴の渡米が〈政治亡命〉とされたり、『新日本』の発行や「愛国有志同盟」の結成にみられる公歴の政治的な活動が、民権青年公歴の疑問の余地のない必然的な道であったかのごとく論じられてきたことなどは、そのあらわれと考えられる。
 公歴自身が渡米の意図を、「家計ノ改復セザルベカラザルヲ感ジ、……昨年来願望セル如ク商業実地研究ノ目的ニテ米州ニ航セント……弟ガ一身ノ得失、弟ガ郷家ノ存亡ヲ決スルモノト深ク信ジ……」と述べていたことは、すでに渡米前の公歴の村野常右衛門宛書簡(一八八六年九月二七日付)によって知られていた事実といえる(4)。しかし、公歴は相変わらず〈政治亡命者〉とされ、家計回復のための商業研究の意味は追及されてこなかった。史料的な限界があったとはいえ、問題は狭い意味での〈民権家公歴〉の〈神話〉にあったのだと思われる。
 今回紹介する公歴書簡は、一八日間の船旅を終えて一二月一九日にサンフランシスコに到着し、オークランドでのスクールボーイ生活を始め、クリスマスを初体験した公歴が、やっと落ち着いて書き始めたアメリカ便り第一号(一二月二七日付−推定)以下八点で、最後は三か月後の四月一日付までである。
 ここには、出国前の挨拶回りから見送りの状況、公歴を含めた同行者一〇人(5)の船内での交流と生活ぶり、アメリカの地を踏んでからの文明・文化衝撃、在米日本人(青年)の生活の様子、友人鈴木房五郎・近藤(シズオ)(6)・小島某らとの交流、短いがサンフランシスコの邦人団体の記述など、渡米の過程と渡米直後の見聞と経験と感想が両親や姉に向けてつづられている。また、姉の美那に渡米の意図を語っており、〈アンビション青年〉だった公歴の野心も明らかとなる。
 なかでもおもしろいのは、渡米意図と政治意欲(政治熱)との内的な関連であり、公歴のアメリカ体験の核心であるカルチャーショックの内実だろう。
 前に述べたように公歴は、渡米前にその意図を〈家計の回復のための商業実地研究〉であるともらしていた。それは渡米後も変わってはいない。横浜をでてから三か月後の一八八七(明治二〇)年三月三日にしたためた姉の美那宛書簡でも、ノ此地ニ来ル所以ハ、商業ニ依リテ富ヲ謀リ、家政復興シテ両親ヲ安意セシメン為メノミ」と記して明解である[史料A−6]。公歴は、目論見実現のためのプログラムとして、「本年中ハ労働シ旁ラ私立学校ニ通フテ語ヲ十分ニ談話シ得ル事ヲ務ムベシ、明年七月頃ニ至レバ商業校ニ入ルコトヲ得ベキ様望居候」[史料同上]との希望を述べていた。渡米直後の両親宛書簡(一八八六年一二月二七日付)でも、「茲家(注−公歴がスクールボ−イとして通い始めた主家)ハ一時当時ノ事情ニ慣れ、物品の名を知る迄居る積りに御坐候……二月ニ相成候ハヽさくらめんと府(此かりほるにや州の議事堂のある処)へ参り、三ケ月も居り度存候」「当地ニ来リテ思慮致候に、言語ニ熟達致候事第一の必用と存候、又正しき言語を習フニハ学校に通ふ事必用なり、依て来四月頃ニ相成候ハヽ、学校ニ通ハんと存候、学校〔我国の小学校〕卒業五年なれトモ、児ハ三年にて卒業致すべし」[史料A−2]と、英会話の取得と学校入学に意欲を見せていた。
 もちろん公歴は、「学ナクンバ富ト雖モ何ニカセン、学アリト雖モ行正シカラズンバ何ニカセン、務ムベキハ仁義、死生只仁義ノミ」[史料A−6]との立場にこだわる儒教主義者だった。儒教的な教養を、行動の指針とする若者だったのである。商業=家計の回復にのみかれの望みを限定してしまうことはできない。
 ただその場合でも、かれにとって商業がもった意味を排除して儒教的教養人や政治主義の領域に止めてしまうことはできない。「商業校卒業後二ケ年桑港ニ於テ実地ヲ研究シ、其ヨリ米州有名ノ都府ヨリ欧州有名ノ都府ヲ跋渉シ、貿易上、外交上、政治上ノ形勢ヲ修業シ、熟練センH弟ノ本望ナリ」[史料A−6]とあって、かれのアンビションが実業と政治の世界にまたがって大きくはばたいていたことがわかる。
 公歴はかつて(一八八四=明治一七年八月一四日夜)、自分の人生設計書ともいうべき「天縦自記」を書いていたが、そこには、東京大学で政治・経済学を学び、諸国を遊歴して諸名士と交際し(一〇年間)、政治の理論と実際を比較して、自分の主義を著わした著書を世に問い(二年)、三年の後に政界に入り、政党を主宰して代議士となり、そして万国共議政府を建てて人びとに「真正ノ自由」をもたらす、とあった。政治世界での英雄的生涯への強いあこがれで満ちていたのだが、東京大学予備門の入学に失敗し、初めての深刻な挫折感を味わう。渡米は、この挫折と家計の傾きのなかから選択され、資本主義的な世界秩序のもとでの英雄的生涯へと転換させた結果だったのだろう。
 その点で、「新日本」グループへの参加=政治熱は、新たな選択を再び否定した再転換だったのである。その再転換にどのような精神過程があったのかは、現在のところ不明だが、取り巻く状況の変化がかれを政治の世界に引き戻したことは、愛国同盟の歴史を解説した「愛国同盟の歴史と目的」[史料B−2]の次の記述から推測できる。
 
回顧スレハ明治二十年ノ末、半期間ノ事ナリキ、吾人カ万里ノ異郷ニアリテ、或ハ心ヲ学
術ニ委ネ、或ハ身ヲ実業ニ投シテ、各個異別ノ目的ト手段ヲ以テ、孜々前途ノ計画ニ従事
スルノ時ニ当テ、轟然激発シテ吾人ノ耳朶ヲ驚殺スルモノアリ、曰ク井上外務大臣カ竊カ
ニ欧米各国ト改訂セントスルノ条約、一朝民間ニ漏洩スルヤ、忽チ日本全土ニ流伝シテ民
間諸有志ノ憂慮スル処トナリ、建白ニ奏議ニ時事ヲ切論シテ、改訂条約ノ却テ原条約ヨリ
有害ナルヲ説キ、板垣翁、谷将軍、「ボアソナ−ド」氏等モ力ヲ極メテ政府外交ノ失策ヲ
忠諌スルニ至リ、天下騒然、物情為メニ安カラスト、吾人ハ是ヨリ先キ、米国ニ滞在シテ
親シク文明国ノ制度文物ヲ実見シ、之ヲ日本当時ノ情況ト将来ノ希望トニ照ラシテ歎息ス
ルモノ尠カラス、時ニ或ハ悲歌トナリ或ハ慷概トナリ、愛国ノ衷情殆ント制止スルコト能
ハサルニ至レリ……
 
 「学術」「実業」という「前途ノ計画」から「愛国ノ衷情」によって突き動かされた政治運動(政社の結成)への転換のきっかけは、一八八七(明治二〇)年七〜八月に表面化した条約改正交渉問題だったというのである。
 したがって紹介した公歴書簡は、アメリカ西海岸の日本人社会に政治の季節が訪れる前のものということになるが、だからこそ公歴らを、亡命−政治運動という図式的理解から解き放ち、かれらの行動や思想、思いをより幅広くとらえる上で大きな有効性を持ちえると思うのである。
 渡米意図とともに興味が引かれるのは、異文化接触の質だろう[史料A−1]。公歴はサンフランシスコ到着後、ケーブルカーやエレベーター、旅店の四階や五階にもある湯室など、その〈文明度〉に興味引かれているが、むしろ公歴の視点は、生活の様式や人びとの関係の有様、つまり〈文化〉の面に向けられていて、公歴にとって初期アメリカ体験の内実を示してくれる。
 たとえば、旅店の最下室にある食堂で、五、六〇人の紳士・貴女が会食している様子をおもしろがっている記述がある。人寄せや懇親の席なら当然に経験しているとはいえ、家族や男女が思い思いにテーブルについて食事をする様子は、公歴にとって初体験だったのある。また、汽車の無賃に驚くと同時に、上等や中等の差がなく、喫煙室が下等とされていることや、一般の人びとが「美服」を着(女性にその傾向が強く)、さらに職業で人間の「高卑」をつけない、衣服に違いもない点に着目している。社会の表面に身分や性的な差別が露骨にあらわれない〈平等〉社会も、公歴を驚かしたのである。
 家の構造についての指摘も、たいへん興味深い。家は高く造られているが門造りは卑しいという指摘もおもしろいが、それ以上に重要な点は、「戸」(窓のことか)を鎖さずに鍵一本を持つだけで家族全員が出かけてしまうことに驚いていることだろう。家に誰も残さずに家族全員が出かけるという経験をほとんど持たず、もし家を明けるような事態のときは、雨戸を閉じることが一般的だったのだろう。屋敷の構造と結び付いた家族のあり方の違いに、公歴は注意を向けていたのである。一家全員が他家の客となり、贈り物を交換し、それを見せあって楽しむ、という見聞も、クリスマスプレゼントを初めてもらった経験とともに書き添えられていて、公歴の関心の所在を示す。
 公歴の、この異文化体験の視座に興味引かれるのは、冒頭に紹介した透谷の「亜米利加に居て君は何を考へてるだろう」との問いにつながるからである。公歴がアメリカ社会に向けたまなざしは、透谷が期待するような〈志想を変ずる〉機会(思想変革の可能性)を確実に持っていたことの証明なのだと考えられるのである。異文化への確かなまなざしから、さらに踏み込んで異文化の本質をとらえようとする格闘へと歩を進めれば、公歴は新しい思想の場を獲得する可能性は大きかったろう。
 ただ公歴書簡の関心はこの後、オークランドやサンフランシスコの日本人社会の動向に
向けられるようになり、アメリカ社会そのものへの関心を深めていった様子を確認できな
い。
 おそらく透谷は、石坂美那を通じてキリスト教の精神に触れていたし、通訳として欧米人との接触もあったからだろう、親友公歴がアメリカで体験するだろう事柄への一定の見通しがあって、「亜米利加に居て君は何を考へてるだろう」との問いが発せられたのだと考えられよう。だからこそ、政治的なアンビションを激烈化させただけの「新日本」への落胆が大きかったと推測することができる。
 公歴が、「新日本」の発行に飛び込んでいったことの意味を過小に評価する必要は少しもないが、亡命民権家による民権運動としてそれ自体を評価の対象としてしまう前に、公歴の渡米意図やアメリカでの思想的な曲折に寄り添ってみる必要があるだろう。政治世界への飛込みは、日本国内の政治状況と愛国の衷情に押された政治的なアンビションの復活という〈選択〉だったのであり、そして選択は実業や学術ばかりでなく、思想形成の場からの転身でもあったのだから。
 なお、書簡八点のうち四点には日付がない。推定できるものは入れ、日付が推定できないものも内容から前後関係を推測して配列した。誤認の可能性もあり、専門研究者の再検討をお願いしたい。
 
三 吉野泰三関係文書(史料B群)
 
 「新日本」の発行や「愛国有志同盟」(のち「日本人愛国同盟会」)の結成(と政論紙の発行)というアメリカ西海岸における石坂公歴らの活動と、日本国内の民権運動・政治動向との関連については、研究者によっていくつかの視点から論じられてきた。とくに日本に帰国したメンバーによる連帯行動については、一八八九(明治二二)年一二月一五日に畑下熊野・中西元治郎・中島半三郎らが東京の北豊島郡に結成した「新日本同盟社」の研究があり、機関誌「新日本」が二号まで出されたという(7)。
 しかし、この「新日本同盟社」の活動は結成後すぐにつまずき、活動停止に追い込まれた後の国内の動きは、明らかではなかった。わずかに、一八九三(明治二六)年一月に京橋木挽町の料亭で「愛国同盟倶楽部」の結成が決議されたとの紹介がおこなわれている程度だったが、「(日本)愛国同盟倶楽部」関係の史料が、三鷹市の吉野泰三関係文書(吉野泰平氏所蔵)のなかに見出され、「新日本同盟社」の活動停止直後の一八九〇(明治二三)年五月以降、「愛国同盟倶楽部」の活動がみられることなどが明らかとなり、まだ全貌とはいえないにしても、手がかりを得ることのできるようになったといえよう[史料B−1、2]。
 とくに、日本愛国同盟倶楽部と在米国桑港愛国同盟が連盟で作成した「愛国同盟の歴史
と目的」を内容とするパンフレット(一八九〇年七月)[史料B−2]には、アメリカ西
海岸での運動の歴史と、国内民権家による連帯行動の重要性が述べられていて、たいへん
に参考になる。
 今まで研究者は、愛国同盟の歴史については、宮城県仙台市で発行されていた雑誌『民報』第一五号(一八九一年二月二五日)に載った「愛国同盟の通牒」を利用してきたが、この記事は吉野文書中に見出されたこのパンフレットの内容と重なり、むしろ運動の歴史を詳細につづったこのパンフレットのほうが重視されるべきであり、今後の利用が望まれる。
 また吉野泰三には、中西元治郎を通じ、米国愛国同盟委員(井上敬次郎・清原鉄策・海老沼弥三・橋本義三・畑下熊野・中野権六・中西元治郎・福田友作)からの活版機器購入金の義捐要請も届けられていた(一八九一年二月)。書簡[史料B−4]と同封のパンフレット[史料B−3]、そして督促のはがき[史料B−5]の三点である。
 こんにゃく版・石版刷りから活版印刷への転換は、在米の愛国同盟員にとって、「新日本」発行以来の新聞製作上の悲願で、漢字活字の入手に手を尽くしていたが、一八九一(明治二四)年当時の具体的な運動がこの史料から明らかになったといえる。
 
四 〈北村透谷 展〉 関係史料(史料C群)
 
 最後に、北村透谷展の展示史料を中心に、公歴と美那、そして透谷の関係史料のなかから、たいへん重要な史料にもかかわらず全文の紹介が不十分な史料のいくつかを紹介しておきたい。
 史料C−1は、小澤勝美氏が発見・紹介した石坂美那の「決意書」と命名された史料で、江刺昭子氏や色川大吉氏なども利用されているが、誤植もあり、ここに新しい解読を紹介しておく(史料の内容については、本書収録の「特別展の記録」の史料番号88を参照)。 史料C−2は公歴の父昌孝宛の一八八五(明治一八)年六月二四日付け書簡で、公歴と透谷が計画した九州までの大旅行(ただし、中途で挫折した)の様子を書き送ったもので、自由民権期の透谷を考える上で決定的に重要な史料である。すでに研究者によって利用されているが、全文紹介は今回が初めてである。
 史料C−3は、公歴のアメリカ便りにかかわる史料だが、公歴と同郷の民権家で、公歴輩として仰ぐ村野常右衛門の稲垣示宛書簡である。大阪事件で禁錮一年に処せられた村野は、一八八八(明治二一)年九月に出獄するが、この書簡は出獄直後に同士でまだ獄中にあった稲垣示に宛たもの。公歴の同士たちの様子を伝えている。すでに『三多摩自由民権史料集』に掲載したが、史料集作成時に原史料が見つからず、『村野常右衛門伝』から採録したため読み間違いが多く、ここに改めて紹介しておく。ただし、草稿であるため、推敲が多く、たいへんに読みにくいことをお断りしておく。
 史料C−4は、泰明小学校の卒業式での透谷の演説を報じる「明治日報」の記事、C−5から7までは、透谷自殺の報道記事である。また、C−8は、アメリカ留学から帰国した北村美那へのインタビュー記事である。記者の説明文から、たまたま帰国中の公歴が同席していたことがわかる。
 
おわりに
 
 種々雑多だが、石阪公歴のアメリカ便りを中心に、愛国同盟の新史料と、透谷・美那にかかわる史料を紹介した。利用されることを、期待したい。
 なお、史料の解読にあたっては、自由民権資料館の百瀬泰江・岩崎清美両氏の協力を得た。
 
(1)主だった研究成果としては、次のものがある。色川大吉「放浪のナショナリズム−石坂公歴」(『新編 明治精神史』中央公論社、一九七三年一〇月)、同『自由民権』 (岩波新書、一九八一年四月)、田村紀雄『アメリカの日本語新聞』(新潮選書、一九九一年一〇月)、新井勝紘・田村紀雄「自由民権期における桑港湾岸地区の活動」(東京経済大学『人文自然科学論集』65号、一九八三年一二月)、新井勝紘「自由民権期における在米・在布日本人の権利意識」(『国立歴史民俗博物館研究報告』35集、一九九一年一一月)、藤野雅己・田村紀雄「オークランドの『新日本』新聞の基礎的研究」(『東京経大学会誌』一四四号、一九八六年一月)。藤野雅己氏には、個々の渡米活動家についての詳細な研究がある。なお、戦前の主だった研究・運動紹介として、蛯原八郎「桑港日本人愛国同盟始末−主として其機関紙を中心に」(明治文化研究会編『季刊 明治文化研究会』第二輯、一九三四年五月)、貴田菊雄「桑港で発行された邦字紙「愛国」のことども」(明治文化研究会編『明治文化研究会』第六輯、一九三五年一一月)などが参考になる。
(2)透谷の公歴宛書簡草稿は、小田原市立図書館が「北村透谷没後100年展」の図録として編集した『土岐・運・来』(一九九四年一一月)で資料写真を見ることができる。
(3)色川大吉責任編集『三多摩自由民権資料集』下巻、九七五ページ以下に収録。
(4)色川大吉責任編集『三多摩自由民権資料集』下巻、九七四ページに収録。
(5)同行九人のうち、名前を記しているのは、神奈川県都筑郡川井村の医者書生の足立良弼と、埼玉県北埼玉郡持田村の石久保某の二名だけだが、「横浜講学会発起人書生」というのは、長崎の出身で横浜商業をでた高野房太郎のことだろう[同行者については、史料A−1参照]。書簡には名を記さなかったが、高野岩三郎の兄・房太郎が同行者だったことを、公歴は長く記憶にとどめることになり、一九三九(昭和一四)年四月に在米日本人事蹟保存会がおこなったアンケート調査では、同伴者に「高野房太郎、実弟  法学博士」と記している(色川大吉責任編集『三多摩自由民権資料集』下巻、九七八ページ以下)。
(6)近藤賤男(一八六七〜一九二七)は、神奈川県淘綾郡山下村(現平塚市)の出身で、一八八五年渡米、九〇年に帰国し、九七年には雑誌『太陽』の編集主任となっている。公歴が中心となって結成した「明治十七年読書会」のメンバーの一人であり、一八八四年一一月一五日の会では、石坂公歴・北村門太郎(透谷)と同席している。
(7)先駆的には、注1に紹介した蛯原八郎の研究があり、最近では前出の新井勝紘・田村紀雄「自由民権期における桑港湾岸地区の活動」、および藤野雅己「自由民権家時代の畑下(山口)熊野」(『日本歴史』四五二号、一九八六年一月)を参照。
(8)注1の蛯原八郎論文参照。
 
 
史料A群
 
【A−1】父親(石阪昌孝)宛 日付なし(明治19年12月27日か) 船橋市・渡瀬信正氏
 
    家大人 膝下
明治十九年十二月二日午前十時平野水島松本山口青木瀬戸岡深沢及姉諸兄ト別ヲ告ケ白帆
東風ヲ含ンデ揚々船行如矢歓音崎ハ一時ニ過キ遥ニ房総ノ諸山ノ翠ヲ呈シテ児ガ行ヲ喜ブ
ガ如シ仝船者九人アリ初日ハ甲板ヲ徘徊シテ各自東視西顧二日目晴午后三時頃ヨリ西北風
烈ク船体ノ動揺甚シク三日目晴風勢前ノ如シ是レニ依テ仝船者病ム者過半児モ眩暈セント
セシ故高幡老獅坐ヨリ玉ヒシ感応丸ヲ服シ遂ニ何ノ事モナク毎日ヲ起臥セリ又仝船者ニ分
チタレバ皆快気ヲ覚エタリシ四日目風勢減ズ五日目晴仝船者既往ノ閲歴ヲ談ズルモノアリ
船中ノ談ズル処ハ某ノ貧富某ノ醜美等ナリ多クハ横浜ニ在留セシモノナレバ談皆横浜ノ人
物ヲ評スルナリ児ノ用意セル物品ハ此日ニ尽キタリ蜜柑一箱ハ二日間ヲ保タズミルク一カ
ンハ一時間ノ中ニ食尽セリ互ニ仝船者中ノ物品ヲ交食セリ六日目南風烈シク最モ航海中ノ
甚シキ日ナリシ児ハ何事モナク終日甲板ヲ徘徊セリ七日目寒気甚シ一日室ニ臥ス室ハ九人
ヲ容ルベキ仕掛ナリ支那人ノ室ハ船体ノ最下ニアリ空気ノ流通宜シカラズ此船支那人七拾
五名ヲ乗ス児等ノ室ハ中段ナリシ是レハ五弗ツヽ出シテ水夫ノ室掛ニ賂ヒシ故ナリト云フ
欧州人下等室ノ隣ナリ上等室ハ矢張中段ナリ客三人アリト云フ此船長ハサアート呼ビ二百
五十弗ノ月給水夫最下等ノ者拾五弗月給綜テノ乗組員百〇六人八日目晴天此日ハ東西半球
ノ遷リメニテ明日ガ又十二月九日ナリト云フ親切ナル水夫来リ告ゲテ云フ只今(午后十時
卅分(日本ノ八時))ガ遷リメナリト児何ノ故ヲ知ラズ仝船者互ニ臆説ヲ吐ケリ此日船医
来リテ種痘ヲ為セリ仝船者中ニ医者アリ云フ是ノ術ハ昔シ蘭術ナリト(其仕方ハ小刀ニテ
  如此皮ヲ切リゴムノ中ヘ種ヲ入レ置ク象牙ノ小切様ノ物ニテ小刀デ切リシ処ヲコスレ
リ)九日目曇リ後雨降ル十日目仝船者互ニ手帳ニ仝船者ノ籍名ヲ記ス銀行役員二名〔横浜
茂木壮ノ社長タル処〕医者書名二名〔一人ハ都築郡川井村足立良弼ト云フ横浜近藤ノ家ニ
習フ。一人ハ紀州有田郡ノモノ田舎ニ医ヲ業セシ者〕川越町ノ書生一人、北埼玉持田村石
久保ト云フ書生一人、横浜職人一人、横浜講学会発起人書生一人東京紙屋ノ小僧一人、児
共十人ナリ互ニ未来ノ企望ヲ話セシヲ聞キ過去ノ快楽ヲ談ズルヲ聴キ私驚東洋航海ノ客窃
花人又避漢人ノ句ヲ得タリ十一日目昨夜雹降ル大サ豆ノ如シ此夜又降ル降ルモ五分間位ニ
テ止ムナリ此夜乗組仝船者ノ未来ヲ戯レニ予言セリ皆曰ク或ハ然ラント仝船者某ニ前途
ヲ訪フ児云フ数万ノ金ヲ得タルノ後ナイヤガラノ傍ニ別荘ヲ作ラント是ヨリヲナイヤガ
ラト呼ベリ或ハ藪医ノ天芙羅ナド種々ノ名目付ケラルヽモノアリ談既ニ尽キタル時分ハ毎
夜々々昔時ノ放快ヲ羨ムノ談アリ随分繁シケレトモ傍ニ此等我国言語ヲ解スルモノナケレ
バ皆安心シテ談ゼシ様子十二日目寒甚シ此夜ヨリ西洋カルタヲ為シ敗ヲ取リシ者ハ十銭ノ
罰ヲ出ス到着前夜迄毎々之ヲ催フス児モ中間ニ入リ五十ノ罰ヲ出ス多キ者ハ八拾銭少ナキ
モノモ三拾銭ヲ出セリ是レハ各自携帯ノ食品既ニ尽キタルヲ以テ此金ニ依リテ或ハコーヒ
ー或ハビーフテキヲ買ヒ互ニ食ヲ争フ事ナリ児ハ其前々ヨリ銀行役員ガ試ミシヲ聞キ之レ
ニ習フテ支那人料理方ニ拾銭与フレバコーヒートパンヲ得ベキ故ニ毎日試ミタリ船中食ニ
苦ムノ事少シモナシ尤モ三度へ常食ハ一人モ食フモノナカリシガ遂ニハ食フ様ニナリタリ
十三日目朝雹降ル降ルト雖モ寒カラズ十四日目晴十五日目曇十六日目快晴十七日目朝雨昼
晴夜曇航海中ハ大概如此ノ日ノミ多カリシ此日ハ水夫等掃除ヲ奇麗ニナセリ十八日目仝船
者上陸ノ用意ヲ為ス午后四時廿分金門ヲ過ギタリ夕刻桑港ニ着ス満目ノ風光ハ無限ノ快楽
ヲ呈セリ金門ヲ入リ迂回シテ桑港ニ達ス船岸傍迄進ミ橋ヲ過グレバ最モ不潔ナル税関ヲ通
ルナリ税関ヨリ市ニ出ツルニ門アリ一人ツヽノ外出ヅル能ハズ児等ハ此夜荷物ヲ船ニ遺シ
テコスモポリタンホテルニ至ル関吏身体ヲイジリマワスシテ宜シト云フ(懐中ニ絹ノハン
カチーフヲ持ツモノモアリシト云フ)支那人ハ尤モ厳ニスト云フ海岸ハ最モ不潔ナリ道路、
中央ハ車馬道、両側ハ人道、車馬道ノ不潔甚シ市中ニ鉄道ナシ有名ナルケーブルカーヲ見
ル馬ナクシテ走ルノ仕掛ナリ何ニシテ走ルヤヲ尋ヌルニ知ルモノナシ鈴木ニ尋ネタレバ云
フ蒸気ヲ以テ地中ニクサリヲ置キ始終回転セシムルモノナリト実ニ近来ノ発明ニ成リテ英
京ニモ之レハナキヨシナリ児思フ蒸気ナレバ発明ニ富ム米国人ナレバ是レ等ノ事ハ容易ナ
ルベシト市街ノ内マーケツト街ヲ第一等ノ繁華トス人道ハ店々家々ノ前ハ其店其家ニテ作
ル規則ニテ石ヲ敷クモノ木ヲ横ヘルモノ煉瓦敷クモノアリ一見シテ貧富ヲ知ルベシ電気灯
モ三本計リ見受タリ(税関ニハ廿四間計リノ間ニ二ツ照シアリタリ)旅店ニ至レバ一ツノ
箱〔矢張ノ形ヲ成セリ〕ノ中ヘ十人ヲ容レ一方ノ角ノノ棒ヲ下ノ方ヘ押セバ機械ニテ四階
迄登ル児等五人ハ三階ニ他ハ四階ニ皆ナ五人一室ナリ室内ノ装置ハ最下等朝昼夕三食付壱
弗ノ価ハ都合宜シク存ゼリ食室ハ最下室ナリ紳士貴女ト共ニ入リ来レルモノ五六十人一室
ニ会食スル事ナリ面白ク感ゼリ湯ハ一人ツヽ入ルモノ是レハ朝食品ヲ製スルトキニカマド
ヨリ湯ヲ沸シ二階ニモ三階ニモヘ通ズル様ニナシ置クナリ故ニ四階ニモ五階ニモ湯室アリ
(便所アリ)一ツノカマドニテ種々ノ作用ヲ為サシムルト見エタリ一夜ヲ茲ニ明カシ翌廿
日日曜日ナリケレバ荷物ヲ出ス能ハズ(税関ノ休日)依テ又一日茲ニ明シタリ幸ヒ小島来
リテケレバ案内ニ頼ミテ王駆乱土福音会ニ至レリ近藤ヲ訪ヒ其ヨリ近藤ノ室ニ一泊近藤ハ
賄方ヲ為シ一軒ヲ与ヘラレ居リテリンコルン語学校ノ第一級生タリト云フ此語学校ハ日本
ノ小学校ト仝等ナリト云ヘリ翌日福音会ニ寄留シ廿二日ニ至リテ或ル主家ヲ探リテ茲ニ通
勤セリ役ハ極メ少ナシ只物品ノ名ヲ知ルコトニ困ルノミ其日鈴木ノ家ニ行ク鈴木モ近藤ニ
仝ジ仕掛ニテリンコルン語学校ノ第二級生ナリト云フ当王土ニ来リテ見聞セシ内ニテ最
モ感ゼシハ桑港ヨリ王土ヘノ渡船場代拾五銭日本里ニスレバ二里(英里五マイル)ノ間ノ
内海ナリ矢張船ガ岸ニ横付キニナルナリ其ヨリ直チニ汽車ニ乗ズベシ汽車ハ無賃ナリ何ト
ナレバ人民ヨリ此大道ヲ借リ居ル故ナリト云フ(渡船ハ三十分毎ニ発着ス)然シテ上等中
等ナシ只煙艸ヲ吹クモノハ喫煙室ト別ニ船中ニ作リアルナリ此ニ入ルモノヲ一般ニ下等ト
ス蒸気車ニモ又喫煙室アリ上等下等ノ差ナシ又一般ニ美服ヲ着セリ婦人ハ尤モ然リ人間ノ
職業ニヨリテ高卑ヲ付ケル如キ事ナシ故ニ一見シテ紳士貴女トナスベシ百姓官吏ヲ弁ゼズ
又家屋ノ構造ハ家高クシテ門卑クシ家々戸ヲ鎖サズ鍵一本ヲ持チテ他出家ニ一人ヲ止メザ
ル事アリト云フ現ニ鈴木ノ居ル家〔鈴木ハ茲ニ半年居ルト〕ニテハ一昨日ヨリ昨日即耶蘇
降生日ヨリ日曜ニ掛ケ一家残ラズ他出シテ鈴木一人留主居シ居コトナリ然シ市中ニハ時々
盗賊ニ逢フモノアリト云フ(第一ニ感ゼシハ生活ノ度ノ進歩セシコトナリ)然リト雖モ人
情ハ一ナリ恰モ我正月ハ当地ノ耶蘇降生日(ルビ‐クリスマス)ナリ市ニハサワラヲ門松様ニ切リ
テ売ルモノアリ(蓋シ室内ニ装置スルモノ)人々互ニ快楽ヲ感ズルモノヽ如ク一家挙リテ
他家ニ客トナリ或ハ贈物アリ(児モ襟飾ノ贈物トカードヲ得タリ)其得タルモノヲ人ニ示
シテ相楽シムナリ〇当地日本人ノ役目一箇独立ニ非ズシテ或ハスクールボーイ(毎朝皿ヲ
洗ヒ毎夜皿ヲ洗ヒ其家ノ一室ヲ借リ受ケ居リテ家ヲ掃除シテ学校ヘ行キ得ルモノ給金ハ一
週壱弗ヨリ四弗迄)ハウスヲーク(家ヲ掃除シ庭ヲ掃キ其他窓ヲ拭ヒ等家内ニ於テ働クモ
ノ給金ハ上ニ同ジ)クック(料理番ナリ)等ノ如キ半人前ノ仕事ヲ為シテ学校ヘ通フモノ
ハ百人ニ一人位其他ハ無為淡泊ニ光陰ヲ消スト云フ宣教師ハリス頻リニ尽力致セトモ好結
果ナキ様子元来福音会ハ日本人ニ都合ヨキ様ニトテ設ケタルモノヽ如シ何トナレバ不信者
モ本会ノ発起人ノ名簿ニ乗セアレバナリ信者ノ中ニモ真ナルモノ少ク不信者ノ中ニモミツ
シリトシタルモノ少キ事ナレバ(況シテ当地ヘ来ルモノハ東京ニテモ食ニ差支ルモノカ道
楽書生ナレバ当地ヘ来ルモ以前ノ如シ)会ノ振フハ六ケ敷事ナリト嘆クモノアリ近藤鈴木
ハクツクトスクールボーイヲ兼ネテ居ル由児ハ只スクールボーイニテ無給ニテ働キ食事ハ
主家ニテ致シ泊宿ハ福音会ナリ泊宿料ハ一週五拾銭是レハ主家ニテ出スナリ主家至リテ親
切ニテ児ノ言語ニ通ゼズ物ノ名ヲモ知ラザルモノモ猶是レヲ親切ニ教エ呉ルH謝ニ堪エザ
ルナリ(目下諸学校ハ冬ノ休暇中ナリ)〇クリスマスノ景況ハ別ニ識ルス事能ハズ是レハ
家内ノ快楽ニテ外面ニ知ル能ハズ当王駆乱土ハブロードウエート云フ街一ツガ繁華ナリ此
街モクリマスト雖モ佐程平日ニ異ナラズ(クリスマスハ一般米州ノ風習ナリ其義ヲ知ルモ
ノハ恐ラクハ少ナカラント宣教師ハリス氏福音会ニテ説教セリ)時々ノ感ハ後日報知可仕
候(当地在留ノ書生ハ日本ヨリ渡来スルモノ少ナキヲ願フ由ナリ)(当地在留ノ書生ニハ
目的ニ違ヒシ事ノ多シトテ国ニ帰ラント望ムモノ多ク然シ金ハナケレバ一日働キ一日遊ビ
ナドスル事ノ由)(又日月ノ早ク経過シテ廿年ノ厄年ヲ免カルレバ足レリト思フテ遊随ニ
落ルモノ最多ト云フ)桑港街道ハ別ニ想像外ニ出ヅルモノナシ電信線モ東京本局ノ電信ヲ
二ツ集メシモノ位ナリ是等ノ報ハ只外面外観ノミニ御坐候匆々頓首
          米国加里保流尼亜州王駆乱土街(ルビ‐区)十五町目
          日本人美以美福音会寓
                    公  歴 再拝
ヲークランドハ東ヲ―〔略ス〕西ヲ―北ヲ―トアリテ随分広キ処ナリト云フ湖水アリ我国
ノ山水ニ及バズ風景ハ日本ノ方ガ面白シキ様ニ思ル然シ一ヲ知リシノミ他如何ナル処アル
ヲ知ラズ
町田君ヘハ別ニ呈セズ宜敷御伝言可被下候
【冒頭欄外】(気候ハ秋風颯々タル時ナリ雨少シ当王駆乱土ハ桑港ヨリハ空気々候共ニ善
キヲ以テ商館ノ主人タルモノハ皆此地ニ住セリ纔カニ二里ノ内海ヲ隔ツルノミニテ佐程違
フ由ナリ鶏松猫犬ナドハ本国ト同ジ只鶏ハ牛肉ヲ食ヒ塩物ヲモ食スル差)
 
【A−2】両親宛 明治19年12月27日朝             船橋市・渡瀬信正氏
 
拝啓
陳者去十九日無恙着米仕候十八日間ノ航海にも拘ハらす身体ハ壮健ニ御坐候間御休神可被
下願上候当地着の上直チニ今の処へ住込申候
茲家ハ一時当時ノ事情ニ慣れ物品の名を知る迄居る積りに御坐候(来年正月中)然し家内
三人(商人ナリ)あり主人ハさんふらんしすこに毎日出掛候由頗る親切にて児の為めに何
彼と教へ呉候物の名を覚へ候にハ好都合ニ御坐候二月ニ相成候ハヽさくらめんと府(此か
りほるにや州の議事堂のある処)へ参り三ケ月も居り度存候て鈴木近藤に頼み置候(当地
へ来ル時ハ生活に困る事もあらんかと存候へ共決て左様の事無之〔一日雇ハ一弗ツヽナリ
ト云フ〕由)近藤ハ才子ナリ周旋ハ至極上手ナリ鈴木ハ一等上ノ人物ナリ
  当地ニ来リテ思慮致候に言語ニ熟達致候事第一の必用と存候又正しき言語を習フニハ
  学校ニ通ふ事必用なり依て来四月頃ニ相成候ハヽ学校ニ通ハんと存候学校〔我国ノ小
  学校〕卒業五年なれトモ児ハ三年にて卒業致すべし其間ニ又善良なる手段を探らんと
  存候間左様御承知可被下候
  児の兼て望み候年限にて十分児の願を達スル事と断定致候
〇横浜を出づる時波止場行途中にて瀬戸岡氏より餞別を受け候〇中島先生方へ十二月一日
夜山口ト同道参り候幸夫婦同室なり児別を告け且別辞ヲ望む先生曰ク第一君が身体の壮健
第二ニ主人ニ気ニ入る事第三ハ忍耐是より先ハ君の胸中にありと云ハれ実ニ感佩致候当地
ハ気候空気共ニ宜しく年中一枚ノ衣服にて足り候由猶肉食致候事故身体の壮健に相成候事
受合なり鈴木近藤小島皆壮健なりと申居候〇横港の事件如何に御坐候哉〇児ハ朝七時ニ出
掛夕八時ニ帰寓致候其中間ハ用事無之候ヘバ其家の細君より読本の稽古を受け候て夜ハ鈴
木の処へ話シニ参り候近藤へも参り候〇金ハ当地ノ名産ニ御坐候由決して故国より金を取
る事ハ無用なり児ハ金を送らるゝ事を願ハず幸便〔山口ノ来タルトキ〕の節古文真宝前編
後編四冊と金聖嘆三国誌〔是レハ唐本ナリ〕を御届可被下願上候取急候侭誤字等御推読可
被下候先ハ安着之御報迄何卒御体御保全単奉願上候匆々頓首
         十二月廿七日朝
   御両親様 膝下                       公歴 再拝
廿九日追白 児ノ参り居り候処ハ只デナク一ケ月二円ニ御坐候由近藤申候
(食事ハ日本ノ上等物ニ御坐候)
【以下冒頭欄外】御祖母様の御壮康を望居候
中島小永井間中久家等へハ後便にて可致候
丸山真光寺其他へも宜敷願上候高幡山ヘハ別ニ一封差出申候後便ニテ
郵便ハ五銭ナリはがきハ弐銭着スル日数ハ廿日目ニ御坐候
 
【封筒表】「M.Ishizaka     大日本帝国東京
   Tokio       本郷龍岡町廿二番地
    Japan       石坂昌孝殿
           【消印】[□,CAL. DEC30 12 M 86]   」
【封筒裏】「明治十九年 【消印】 [SANFRANCISCO,CAL TRANSIT DEC 30 1886]
十二月廿九日    【消印】 [東京二〇・一・二〇・チ]    」
 
【A−3】姉(石阪美那)宛 日付なし              船橋市・渡瀬信正氏
 
  姉君           米国カリホルニヤ州ヲークランド十五町目
               福音会寓             公 歴
当地無事着何事ヲ郷里ニ報ゼンカ茫然タリ故ニ見レトモ見エズ聞ケトモ聞エズ追々ト正当
ノ順序ニ依リテ御報可申候只感触セシ処ノミ家大人宛御報申上候間御覧可被下候ヲバーリ
ングヲブヲハヨヘハ直チニ出シ候然シクリスマスニハ間ニ合ハザルベシト云フ何トナレバ
書状ハ一週間ヲ要スルト云フ事ナレバナリ御祖母様御両親様ノ御壮康姉君妹子ノ御健全ヲ
単ニ祈居候ノ第一ニ困リシハ言語ノ不通ナリ然シ目下ハ少々ツヽ覚エ候先ヅ三四ケ月ハ
学校ヘハ行カズニ土地ニ慣レル迄ハジツトシテ居ル方ガ宜シト申事ナリ只喜ブベキハ安全
ニ三千里ヲ航シテ無事ニ目的ニ進ム事ヲ得ル是ナリノ帽子ハ当地ノ者ヨリ見ルト極メテ
奇ナルモノナリト云フ故ニ小児等路ニ居リテヲ見ルトグードハツトト呼ベリ面白キ事ナ
リ過日十二月一日夜姉君ニ別レテ中島氏ヲ訪ヒ別辞ヲ請ヒシニ先生曰第一身体ノ壮康第二
ニ主人ニ気ニ入ルコト第三ニ忍耐トノ感佩スル処ナリ姉君ヨノ生活ノ為メニ決シテ心
配セラルヽ勿レ(当地ハ生活ハ最モ容易ナリ其レ故日本書生ハ懶惰心ヲ発スト云フハ当地
在留ノ輿論ナリ)只忍バル事ヲノ為メニ祈ラレヨ又御祖母様御両親様ニモ御安心被下候
様御言上可被下候
  where there is will,there is a way.  
ナレバ心配ハ無用ト存候猶又当地ニ居ルモハ皆人品宜シト云フハ常ニ肉食スレバナリト云
フ近藤鈴木等モ顔色ニ艶アリテ身体ハ実ニ壮康ナリト云フ日本ヨリハ何ニモ(金ヤ衣ノ事
ナリ)送ラルヽニ及バズ只新聞カ雑誌ノ有益ナルモノアレバ時々御送リ可被下候又日本ノ
時情ヲ通ゼラレヨ新聞ハ大抵一ケ月分ノ送便賃五銭ナリト云フ(万国郵便規則ニ従フモノ
ナリト云フ)只御壮康ヲ祈ル猶御祖母様ノ御安泰ヲ祈ル
【冒頭欄外】高幡隠居ヘ宜敷願上候又山口細君阪倉早川板谷橋本諸君ヘモ宜敷願候
弟ガクリスマスプレセントヲ主家ヨリ貰フネキタイ及カーヅ
【冒頭上部欄外】(気候ハ秋冷)
 
【A−4】宛先不明(美那宛か) 日付なし            船橋市・渡瀬信正氏
 
当地ニチヤーチヲブクライストト称スル会堂アリ家ハ小ナレトモ極メテ熱心ナル信者相集
リテ下等社会ヲ教導スルノ目的ナリト云フ此教会ヨリサルベーシヨンアーミートテたいま
つヲ灯シ歌ヲ歌ヒ鐘大鼓ヲ叮キテ通行スルノ一隊アリ以テ下等社会ノ耳目ヲ喜バシメ教会
ニ来ル様ニ勧メルナリト云フ(元ヨリ教会堂ニ集マルモノハ中等ヨリ中等以上ノ男女ナリ
此国ニハサンデークローズトテ会堂ニ着テ出ル衣服ハ別ニアリト云フ其レダノ是レダノ
〔下等者ハねころばつて寝タリ起キタリスルガ勝手〕ノ訳ニテ教会ニ行クヲ快ヨカラズ思
フ者ノ為メニ計ルナリト云フ)之レヲ賞スルモノ多シ
     K.Ishisaka,
     Japanese Gospel Society,
      No 612 15th st Oakland Cal.
          U.  S.  A
   弟ハ此処ニ止宿セザレトモ郵便ハ此処ヘ御届可被下候
過日家大人ヘ宛当地ノ形勢総覧ヲ送レリ御一読アランコトヲ望ム又御祖母様ヘ御話アラン
コトヲ望ム
高幡隠居早川山口夫人琴君橋本君、□□君其他ヘ宜敷願候
 
【A−5】姉(石阪美那)宛 明治20年1月29日         船橋市・渡瀬信正氏
 
新年ニ相成候処益御壮康ト存奉欣賀候御祖母様ニハ定メテ御安泰ナルベク御両親様ニモ御
安泰ノ事ト存奉欣賀候ハ誠ニ無異ニ御坐候間御安心可被下候近頃ハ英語少々話居候兎角
アクセントガ違フ故ニ先キノ人ニモ分ラズ先キヨリ此方ニ言ハレテモ妙ニ聞エテ困リ居候
追々必要ニ迫リテ聞慣レ言慣可致存ジ楽居候猶又今年ハ弟ノ一身上ニ付キ快キ事アルベシ
ト楽居候目下居ル家ハ二月中此家ニ居リ三月ヨリハ給金ノ多キ処ニ参ルベク候五六月頃ニ
相成候ハヽ写真〔当地ニテハ写真(一ダースナリ)七円ヨリ其上極リナシト云フ〕ヲ送ル
コトヲ得ベク存居候此節ハ身体丈リ候様子ナリ写真ヲ送ラバ御知可被遊候天生英雄老艱難
ト云フ事アリ弟ハ難ヲ自カラ好ミテ之ニ当ラント存候ヘ共未ダ難ニ逢ハズ蓋シ弟ノ幸ナル
当地形成綜覧トモ云フベキモノヲ得タリ一冊拾銭ナリ御一覧被下度候又御祖母様御両親様
ニ御言上可被下願上候妹子ハ勉強致居候哉〇此地ニテ人種ガ違ヒ習慣ガ違フ故万事皆新奇
ナリ又御世辞トカ交際トカト云フモノガ少シモ無用故ニ弟ノ気儘ナル即チ天性ヲ其儘養ヒ
得ラルベク只々楽ミ居候時々嫌(ルビ‐イヤ)ト思フ事有之候ヘ共(主家ニアリテ)致サヾレ
バ自身ニ早速ト報フコトト思フ故ニ致ス事有之候実ニ自分デ笑フ事有之候
正月ノ年当行ハ誰レニテ候ンヤ又横浜ノ事ハ如何ニ相成候哉御報可被下奉願上候御祖母様
御壮康之御保養単ニ奉望候頓首 〔早川板谷山口融細君橋本諸君ニ御面会ノ時宜敷御伝言
可被下候〕
  弟ハ公立学校ヘ行カズ独リニテ致居候目下ハ主家ノ婦ニスペルリングヲ教ヘラレ候ヘ
  共好シカラズ
  本年中ハ働クベシ其内ニハ十分都合ノ好キ事ヲ見出スベク存居候金ヲ得ルハ弟ノ始メ
  ノ目的金ヲ得ルノ都合ナクバ自身ニ修業シテ自身ヲ富サント存居候
  御母上様ニ御言上可被下候
 姉上様   一月廿九日夜認                公 歴 拝
    家政ノ事ハ清潔ヲ好ミ候事情御報知可被下候奉願上候御両親様モ清潔ニハ御仝
    意ナリ
 
【A−6】姉(美那)宛 明治20年3月3日             船橋市・渡瀬信正氏
 
我親愛ナル姉君ヨ願クハ身体ノ保養ヲ忘ラズシテ真誠女子タルノ本分ヲ尽サンコトヲ務メ
御書ニ接シテ姉君ノ己ヲ修ムルニ切ナルヲ知ルノ大ニ欣喜スル所ナリハ別来益壮康
然レトモ精神ノ薄弱ナル即チ修練ノ足ラザル事誠ニ慨嘆ニ堪エザルナリノ務メノ中最大
急務トスル所ノモノハ精神ノ修練是ナリ孟子曰吾能養我浩然之気王陽明曰去人欲而純天理
ト是レヲ為ス如何即チ忍耐ト勤慎トヲ常ニ胸中ニ記臆スベシヤ此事ヲ知ル十分ニ知レリ
然ルニ時ニ或ハ匹夫ノ行為ヲ為ス仮令ヒ之レヲ行ハザルモ胸中ニ於テ忿怒ノ情ヲ起ス鳴呼
ノ精神即チ心魂ノ薄弱ナルコト此極ニ至ル乎悲マザラント欲スルモ止ム可カラズ願ク
ハ姉君時々書ヲ投ジテヲ助ケヨ一身修リテ意誠ニシテ心正フシテ然ル後家斉フノ此地
ニ来ル所以ハ商業ニ依リテ富ヲ謀リ家政復興シテ両親ヲ安意セシメン為メノミ只此事ニ尽
力可仕候過ル便船ニ申上候如ク本年中ハ労働シ旁ラ私立学校ニ通フテ語ヲ十分ニ談話シ得
ル事ヲ務ムベシ明年七月頃ニ至レバ商業校ニ入ルコトヲ得ベキ様望居候思フニ課業ハ易キ
モ言語不通ナレバ役ニ立タズ   然リト雖モ姉君ヨ学ナクンバ富ト雖モ何ニカセン学ア
リト雖モ行正シカラズンバ何ニカセン務ムベキハ仁義死生只仁義ノミハ信ズ神ハ仁義ノ
人ヲ助クルナリト頓首 書不尽意請了察
                   於王駆乱土明治廿年三月三日
  姉君                           公歴再拝
      御祖母様ヘ御孝養是祈
【冒頭欄外】商業校卒業後二ケ年桑港ニ於テ実地ヲ研究シ其ヨリ米州有名ノ都府ヨリ欧州
有名ノ都府ヲ跋渉シ貿易上外交上政治上ノ形勢ヲ修業シ熟練センコト弟ノ本望ナリ誠ニ御
書ノ意ノ如シ鳴呼姉ノ心ハ弟ノ心ナリ人誰レカ智ナカラン誰レカ愛ナカラン只之レヲ拡充
スルコソ人間ノ務メナリ
 
【封筒表】「 Miss. Mina Ishisaka
      Kiolitsu−Gakukow
 Japaness   Yokohama
            Japan
           【消印】[OAK LAND,CAL. MAR5 6AM 87]  」
【封筒裏】「 共立学校    【消印】 [SANFRANCISCO,CAL. MAR5 7AM]
  石坂□ナ殿  【消印】 [JAPAN YOKOHAMA 29 MAR 1887]
          【消印】 [横浜二〇・三・二九・チ]     」
 
【A−7】宛先不明(美那宛か) 日付なし            船橋市・渡瀬信正氏
 
御書明治廿年一月三十一日出到着拝見仕候益御健全御出精之段単ニ欣賀ニ不堪候願クハ常
ニ平和ニ御起居アランコトヲ望候偖事近時健康相加候段御安意可被下候御書ニ御返答申
候事如左   〔弟ノ泊リシ宿屋ハ中等ノモノナリト云フ〕
 店舗等ノ家作ハ故山ノ勧工場様ノ如シ、as like as (ルビ‐アスライキアス)街市ハ銀坐ノ如シ
 然レトモ樹木ヲ植エズ横町ニハ植エアリ、大道ハ三ツニ分ル両側ノ人道ト中央ノ車馬道
 ナリ、〔桑港ノ景ナリ〕人道ハ店毎ニ己ガ前ノ道ヲ作ルナリ、故ニ石ヲ畳クアリ、煉瓦
 ヲ畳クアリ、鉄板ヲ──、中ニハ石ニ己ガ番地名前ヲ彫ミ置クモアリ、家作ハ銀坐ノ如
 シ然シ大ハ頗ル大ニテ間ニ小ナルモアリ(銀坐ハ皆一様ナレトモ)家々水ト瓦斯ハ頗ル
 便利ヲ極ムト云フ猶又近時新築ノ家ハ一層ノ便ヲ加ヘリト云フ以上ハ桑港ノ景ナリ只外
 見ノミ勿論貧富ハアルベキ也当王駆乱土ハ小都会ナリ桑港ニ比スレバ孫彦位ナリ日本橋
 通リトモ云フベキヲぶろうどうゑいト云フ然シテ当地ハ空気ガ宜シキ故ニ猶又煙筒ノ煙
 リ少キ故ニ健康ニ宜シト云フ体栽ハ桑港ニ似タリ会堂ハ其処彼処ニ有リ尤モ大ナルモノ
 第一コングレゲーシヨン第一美以美第一プレスビテリアンナリ之レヲ見舞ヘリ恰モ故
 山ノお寺ノ如シ然シ飾リ物ナシ只正面ニ楽器ヲ供フ其体裁ハ(コングレゲーシヨン)家
 ノ外見ハ幾何ノ屋根   〔如此突出セリ〕アリ〔一見会堂タルヲ知ル也〕家ノ中ハ円
 ク形ス正面ニ高ク楽器及ビ奏楽者 organist 女子一人次段ニ奏歌者 choir 男女(或ハ
 男ノミノ時モアリ)廿名余三段目ニパスターノ席即チ説教所ナリ集会者ハ次段奏歌者ノ
 列〔即チ二階ナリ〕ヨリラウンドニ形作ル其下ハパスターノ場ヨリ仝ジクラウンドニ作
 ル弟ハ故山ニアリテハ此ノ如キ家作ヲ見ズ第一美以美ノ家作ハ奏楽奏歌者ハ第一コング
 レゲーシヨンニ仝ジクパスターノ席及集会者ノ場ハ明治会堂ニ仝ジ然シ二階ハ後ガ高ク
 前ハ低シ兎角立派ナリ集マルモノ五六百人ハ入ルベシ婦人ハサンデークローズヲ着シ互
 ニ美ヲ競フナリト云フ雨天ノ時ハ集者極メテ少ナク去二月ノ十三日ハ大雨ト申ス程ナラ
 ザリシモ来集者共拾二人ナリシ聞ク東方即チニユーヨルクボストンシカゴ近方ハ人気
 平和ニ且ツ信者誠ヲ盡セ共此地方ハ新開ニテ所々方々ヨリ雑物幅湊スル故従フテ信者モ
 名ノミナリト云フ〔パスタルハリス氏 Paster Harrisノ話ナリ〕〇習慣及風俗等ハ未ダ
 御報申兼候追テ御通知可申候当王駆乱土ハ学校様ノ家ノミニアラズ商家医家種々雑多有
 リ元ヨリ一小都ナレバナリ而シテ日本人ガスクールボーイト呼ブハ午前八時半ヨリ午后
 三時半迄即チ小学校時間丈ノ閑ヲ得テ其他ノ時間即チ朝六時半乃至七時ヨリ八時半迄夕
 三時半ヨリ夜八時頃迄〔朝食ト夕食トノ料理及(アトカタツケ)〕各々働クナリ故ニス
 クールボーイト云フ或者ハ通学シ又或者ハ散歩セリ通学スルモノハ皆福音会員ナリ凡ソ
 拾五六人ノミ其他ハ散歩即チブラツキ連ナリト云フ事ナリ当地学校ハ即チ公立学校ハ無
 月謝ナリ近藤賤男〔相州人ニテ三年滞米〕云フ一年ニ一人ノ生徒ニ三十九円余ノ入費ヲ
 要スト其故ハインキペンペーパー其他入用ノ物ハ尽ク学校ヨリ呉レルト云フ只書物ノミ
 自費ナルノミ又教育ノ盛ンニ人々ノ心ヲシテ必要ナル感ゼシメタルノ一般ヲ知ルニ足ル
 盛ンナリト云フベシ日本書生来リテ其恵ヲ受クハ深ク我国人ノ貧シテ鈍セルコトヲ悲
 ムナリ又止ヲ得ザル哉〇支那人ハ最早来ルコトヲ許サレザル様子ナリ何故カ知ラズ何ニ
 致セ支那人ハ忍耐カアリ当王土ノ洗濯屋ハ尽ク支那人ノ手ニアリト云フ以上
 
【A−8】石坂昌孝宛 明治20年4月1日            船橋市・渡瀬信正氏
 
   明治廿年四月一日夜
鈴木房五郎二月ノ中旬ヨリ風邪ノ為メ会ニ来リテ療養致居候所三月ノ中ニ至リ桑港ニ竹山
トカ云フ北越人ニテ医者ヲ業トスルモノ今ハ日桑商会ト云フ少些ナル店ヲ出シ居ルモノニ
診察セシメントテ桑港ニ至リシニ仝人ハ商用繁務ノ為メ其暇ナシトテ謝絶セリ依テミツシ
ヨン町ナル日本人青年基督信者会(ルビ‐ジャッパンニース、ヤングメン、クリスチヤン、アツソシエーシ四)ニ新ニ日
本ヨリ来リシ海軍医某ニ診察ヲ求メシニ其者ハ肺病(ルビ‐ラング)ノ始メナリト診断セリ依
テハ空気ノ清爽ナル処ニ療養スベク国ニ帰リテ晃山ニ一月モ居レバ直ニ全快スベシト云ヘ
リ〇目下鈴木ハ一週間壱弗半ノ給料ニテ無一物ノ為メ無余義ハリス教師ヨリ添書ヲ得テ郡
ノ病院(ルビ‐カウンチー、ホスピタル)〔当地ノ郡ハ我国ノ三四郡ヲ并セタル如キ広サナルベシ〕ニ
入院ヲ請ヘリ此病院ハ公費ナリ誠ニ不得止ノ下計ナリ昨日之レヲ見舞ヘリ地ハ桑港湾ニ望
ミ四望頗ル快活ナリ院ハ山麓ニアリ当欧苦乱土ヲ去ル英十一里汽車通行セリコントラコス
タカウンチーナルサンレアンドルト云フ
鈴木云フ此院ハ下等社会ノ来ル所故取扱ハ粗末ナレトモ万事行届キ居ル様ニ思ハル病室ハ
八人ヲ入ル重キ者ト軽キ者ヲ入レ軽者ハ重者ヲ助ケ朝夕互ニ重キ者ヲ世話スルナリト云フ
百姓ハ時々馬ヲ引イテ畑ニ出テ植木屋ハ植木ヲ世話セリ固ヨリ病人ノ事故仕事ニ極リナシ
ト云フ
仝人ハ此院ニテ一週間ヲ経シノミ病状前ニ仝ジト云フ児ノ見タル所ニテモ重キニハ非ズ毎
周一度位遊ビニ行クニ善キ所ナリ
当地ハ夜ニ至リテ寒ヲ増スト云フ又風邪ヨリシテ肺病ヲ起スト云フ我国ニテ勉強寄リ起ル
ト云ヘリトカ
〇目下梅ハ散ラントシ桜ハ満開桃モ満開ニ御坐候春風駘蕩ノ候ニ御坐候
〇黒田伯世界漫遊ノ途次此地ニ一昨日来ル此書状ト共ニ国ニ帰ルナルベシ当地新聞「モー
ニングコール」ニ左ノ評アリ
  ○コールノ探訪者ハ日本伯爵清隆黒田ノ尊厳ヲ犯セリ伯ハ探訪者ニ接スルニ中古伊斯
   パニヤ国王ノ朝庭ノ儀式ニ似タル様体(ルビ‐ようたい)ヲ以セリ伯ハ応問ニ答フル
   ニ快クセリ然レドモ政治上ノ応対ニ至リテハ只全ク外客ヲ接スルノ仕方ナリシ云々
   伯ハ本ノ職業ハ兵卒ナリシガ(兵卒ハ士族ナルベシ)千八百六十八年ノ徳川覇府ヲ
   覆シ帝政改復ノ革命ニ於テ活溌ナル功ニヨリテ伯ノ英雄タルヲ彰セリ云々今度ハ帝
   ノ特別ナル命ニヨリ世界ヲ遊歴シ精密ナル観察ヲナセリ只ニ各国ノ兵政ニ於ケルノ
   ミナラズ人民ノ進歩及発達ヲ観察セリ伯曰ク特別ニ此合衆国ニ於テハ十三年前此ニ
   来リシ時ハ今我泊ル所ノパレスホテルハナカリシ又此国ニ於テ最モ此桑港ニ於テ佳
   美ナル結隊旅客ノ伝舎((ルビ‐カラバンサリー)ハ伯ヲシテ驚カシメシ云々
    【欄外】caravansary 結隊旅客ノハタゴヤ
〇哲学会雑誌御送附奉願上候匆々頓首
 水島君町田君其他諸君ニ宜敷御伝言奉願候
 林君ヨリノ書ニヨリテ村野其他ノ様子ヲ詳ニス
 
   森久保氏渡航ニ付御答如左
渡航之事欣賀之到ニ御坐候船中之用意緊要ト存候ハ蜜柑ヲ第一好ミ候
当地着ノ上ハ我国人ノ此地ニ在留セントスルモノハ皆コスモポリタンホテルニ宿ル一日壱
弗ナリ
貿易銀ハ当地ニ於テ仝ジ価ナリメキシコ銀貨ハ七拾銭ヨリ九拾銭迄ニ通用スル也船賃ハ大
人小児五十円ナリト云フ(日本円札ニテ)
当カリホルニヤ州ノ内桑港及欧駆乱土ハ公立学校ハ無月謝ニテ紙筆墨等ノ需用品ハ学校ヨ
リ供スルト云フ故ニ書籍ノミ持参スレバ其他ハ何ヲモ要セズ是レハ此地ノ高慢スル所ナリ
ト云フ
何所ノ外国人ヲ論セズ来リテ直チニ此校ニ入ルヲ得ベシ教員ト生徒ノ関係ハ至リテ親密ナ
リト云フ現ニ鈴木房五郎病気ニテ臥床ニ某校ノ教員〔教員ハ小学校ハ女ノミ〕見舞ニ二三
度来リシ也
教員ハ女子廿歳ヨリ廿五六歳ノ者ナリト云フ多クハ中学校卒業ノ者ナリ
只支那人ハ入学ヲ〔小学校中学校ノ事ナリ〕許サズト云フ
月俸ハ福音会ニ居ラバ
  (食料     七円五拾銭
                ) ニテ足レリ
   ベツド代   壱円五拾銭
    只寝ルコトヲ得ルノミ
十二三歳ノ我国ノ小児ハ九歳十歳ニシカ通用セズ当州ニ来リテ北米合衆国ノ良民タラント
スル者ハ直ニ出来(ルビ‐デキ)ルト云フ又既ニ国民タル上ハ百六十エークルノ地所ヲ所有ス
ルヲ得(一エークルハ我四反十八歩余ニ当ル)ベシ欧苦乱土ヲ離ル四五十里ノ所ニ至リテ
ハ一エークル百廿五弗ヨリ百五拾弗位ナリト府ノ土地ハ之ニ十倍ス
志アルノ士来リテ何事カ為サントスルニハ沢山ノ仕事有之候(製造工芸)大工職業ハ小学
校ニテ一週間ニ一度ツヽ教授スル由教員ハ大工ナリ
目下在留ノ中ノ多数ハ志ナキモノナリト云フ
当州ハ基督教国ノ内ノ一州ナレトモ新開地ナレバ種々ナル人類来集セリ故ニ教国ノ名ノミ
其実ナシ只金是権ノ有様ニ御坐候
或人ノ話シニ此地ニ住スルモノヽ内日本人ヲ雇ヒ居ル家ハ下等ノ上位ノ身上ナリト
来リテ直チニ一週間一弗ヲ得ルハ容易ナリ其ヨリ上ハ言通セズ芸ナクテハ協ハズト云フ概
略如右
桑港ニハ日本人福音会日本青年キリスチヤン会ゴルデンゲートノ会丹森太郎ノ会国会準備
会エッデーストリートノ会トテ種々ナル会合有之候由エッデーストリートノ会ニハ児ノ成
立校ニアリシ時教員タリシ菅原伝氏居レリト云フ又国会準備会ニハ八幡十郎氏ノ仝郷人ナ
ル松井瑞麿氏居レリト云フ未ダ并ニ面セズ
 
【封筒表】「Masataka Ishisak     日本帝国
  Tatsuoka-cho,Hongow,   東京府本郷
   Tokio,         龍岡町
    Japan          石坂昌孝殿
        【消印】 [SANFRAN□ A□ 1□ 8□]    」
【封筒裏】「   【消印】 [東京二〇・四・二一・□]    」
 
【A−9】住所メモ@                     船橋市・渡瀬信正氏
【表】 K.Ishizaka
Japanes Gospel Society,
      No 612. 15th st Oak.
      Cal.  U.  S.  A.
【裏】郵便其他御送リ被下候モノハ表記ノ処ヘ宛御差出可被下願候
児ノ住処ハ此ニ無之候ヘ共住所時々更替致スベク候ヘバ也
アメリカ合衆国
カリホルニヤ州
ヲークランド
十五町目六百十二番
 日本人福音会
 
【A−10】住所メモA                     船橋市・渡瀬信正氏
【表】K.Ishisaka
   Japanese Gospel Society,
     612 15th Oak.
【裏】横浜事件ハ如何相成候哉丸山其他ノ様子如何ニ候哉
新聞ハ報知カ朝野此分ハ四月頃ヨリ
雑誌ハ六合雑誌東洋学芸雑誌
  (共ニ一年一円ナリ此分ハ早速御送リ可被下願上候
   此代ハ四月ニ相成候ハヽ御送可申候ト存居候
村野ノ罪ノ定リシヲ喜ビ水島土方其他ノ放免ヲ喜ブ
 
史料B群
 
【B−1】「愛国同盟倶楽部設立ノ大意及仮規約」 明治23年5月  三鷹市・吉野泰平氏
 
   愛国同盟倶楽部設立ノ大意及仮規約
森茫トシテ際涯ナク我神聖ナル立憲帝国ノ前途モ多事多難ナル哉十九世紀末葉ノ大勢ハ我
国ヲ駆リテ此恐ルヘキ実利実益ノ競争上ニ出タサシメタリ富豪強大ノ外人ト争フ豈ニ至難
ナラスヤ余輩茲ニ感アリ親シク文明国裡ニ入リ開化ノ真ヲ探リ感情ヲ等フセシモノヲ糾合
シ及余輩ト同感ノモノヲ集メ以テ邦家ニ尽ス所アラントス是レ本会カ設立ノ大意ナリ
    仮規約
第一条 本会ハ社交上智徳ヲ増進スルノ目的ヲ以テ組織ス
第二条 本会ハ左ノ目的ヲ達スルコトヲ務ム
 第一項 欧米各地ノ内外人ト通シ社会ノ気運ニ随ヒ農工商業其他社会百般ノ改良進歩ヲ
     希図スルコト
 第二項 在米日本人愛国同盟ト気脈ヲ通シ交誼ヲ厚フシ及社交上ニ対スルノ義務ヲ尽ス
     コト
 第三項 育文尚武立憲国ノ民タルコトヲ力ムヘキコト
第三条 本会ハ会費及寄附金ヲ以テ其経費トナス
第四条 本会員ハ会費トシテ毎年金弐円五拾銭ヲ出スモノトス
第五条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
     当分ノ内    幹  事    壱 名
第六条 幹事ハ満一ケ年ヲ以テ任期トシ会員中ヨリ撰挙ス
第七条 本会ハ毎年二回(五月十月)大会ヲ開キ毎月第一土曜日ヲ以テ小集会ヲ開キ交互
 知識ノ交換ヲ計リ社会上経済上等ノ実地問 題ヲ討議スルモノトス
第八条 会員協議ノ上演説或ハ講議会ヲ開キ内外ノ大家ヲ聘ス
  但シ社会上ノ大問題ニ対シテ全員ノ意見ヲ発表スルコトアルヘシ
第九条 徳望剛直ノ先輩ヲ以テ本会ノ名誉会員トナシ賛成スルモノヲ賛成会員トナス
                       愛国同盟倶楽部
  明治二十三年五月                   仮 事 務 所
   名誉会員
    板垣退助君 各府県国会議員諸君 同主義先輩諸君 其他
 
【B−2】愛国同盟の歴史と目的 明治23年7月         三鷹市・吉野泰平氏
 
在米国桑港愛国同盟ト日本愛国同盟倶楽部トノ関係ニ付聊カ其真象ト歴史トヲ略叙シテ衷
情ヲ左ニ訴エ申度以鉛版代謄写候間幸ニ御一顧被下度願上候也
                  在米国桑港愛国同盟
 明治二十三年七月
                  日本愛国同盟倶楽部
           殿
     愛国同盟
在米愛国同盟ニシテ前後本国ニ皈省シタルモノ相結合シテ一団ノ会合ヲ東京ニ設立シ之ヲ
名ケテ愛国同盟倶楽部ト称シ在桑港ノ愛国同盟ト気脈ヲ通シテ交誼ヲ厚フシ社交上ノ義務
ヲ完クシ自由主義ヲ奉スル諸政社ヲ助ケ嶄然頭角を顕ハスニ至レリ吾人ハ大ニ国家ノ為メ
自由ノ為メニ祝賀シテ措カサル所ナリ何トナレハ吾人ハ過ル四年間雲烟万里ノ外ニ在テ辛
苦経営スル所ノモノ一ニ此大主義ヲ奉シテ国家万年ノ大計ヲ定メ以テ民庶ノ幸福ヲ増進セ
ントスルノ外ナキヲ以テナリ今ヤ政界繁雑ヲ極ムルノ秋ニ際シテ愛国同盟倶楽部ナルモノ
ヽ東京に起リシハ実ニ時勢ノ然ラシムル所ナリ吾人同志ハ拮据黽勉シテ将来ニ於テ立憲制
度ノ新日本ヲ支配スヘキ自由主義ノ一大活動力トナランコトヲ望ミタリシニ今ヤ気運漸ク
熟スルニ及ハントス吾人豈ニ自由ノ為メニ一大白ヲ引テ之レヲ祝セサルヲ得ヘケンヤ然リ
ト雖吾人ハ唯タ大白満引之ヲ祝賀シテ已ムモノニアラス此好機ニ際シテ吾愛国同盟ノ今日
迄ニ経過シ来リタル萌芽発達ノ歴史ヲ略叙シ且ツ将来ニ向テ如何ナル希望ヲ懐抱セルヤヲ
開陳シテ広ク同志ニ告白セント欲スルナリ
回顧スレハ明治二十年ノ末半期間ノ事ナリキ吾人カ万里ノ異郷ニアリテ或ハ心ヲ学術ニ委
ネ或ハ身ヲ実業ニ投シテ各個異別ノ目的ト手段ヲ以テ孜々前途ノ計画ニ従事スルノ時ニ当
テ轟然激発シテ吾人ノ耳朶ヲ驚殺スルモノアリ曰ク井上外務大臣カ竊カニ欧米各国ト改訂
セントスルノ条約一朝民間ニ漏洩スルヤ忽チ日本全土ニ流伝シテ民間諸有志ノ憂慮スル処
トナリ建白ニ奏議ニ時事ヲ切論シテ改訂条約ノ却テ原条約ヨリ有害ナルヲ説キ板垣翁谷将
軍「ボアソナ−ド」氏等モ力ヲ極メテ政府外交ノ失策ヲ忠諫スルニ至リ天下騒然物情為メ
ニ安カラスト吾人ハ是ヨリ先キ米国ニ滞在シテ親シク文明国ノ制度文物ヲ実見シ之ヲ日本
当時ノ情況ト将来ノ希望トニ照ラシテ歎息スルモノ尠カラス時ニ或ハ悲歌トナリ或ハ慷慨
トナリ愛国ノ衷情殆ント制止スルコト能ハサルニ至レリ是ニ於テ乎明治二十年十一月十三
日ノ夜ヲ以テ意見ヲ懐抱スルノ志士無慮廿五名ヲ会合シテ先ヅ在米日本人ノ一致協合ヲ謀
ラサル可ラサル所以ヲ論シ演説ニ討論ニ互ニ悲壮豪毅ノ意見ヲ吐露シテ衆員ノ議論政社設
立ノ一点ニ傾斜スルヲ知リ終ニ同夜論述セル所ロノ主意ニ基キ政社ヲ組織シ及其主義綱領
ヲ定メンカ為メニ委員五名ヲ互撰セリ是レ実ニ吾カ愛国同盟ナルモノヽ桑港ノ地ニ起コリ
タル萌芽ニシテ当時ニ於テハ未タ今日ノ隆盛ヲ期スルカ如キハ殆ント漠トシテ知ル可ラサ
ル程ナリキ越テ同月十六日ニ於テ始メテ創立委員会ヲ開キ爰ニ始メテ在米日本人愛国同盟
会ナル名称ヲ撰定シ及ヒ自由ノ主義ニ拠リテ社会ノ改良ヲ計ランカ為メニ演説会ヲ開キ新
聞紙ヲ刊行シテ之レカ手段トナシ以テ広ク日本ノ有志ト気脈ヲ通スヘキ事ヲ議定セリ乃チ
同月二十日ニ至テ大ニ同志ヲ会合シテ創立委員カ定ムル所ロノ主義綱領ヲ討議シ竟ニ之ヲ
採用シテ茲ニ始メテ吾カ政治上ノ団体ヲ結合シ役員ヲ定メテ愈々実地ノ運動ニ着手セシム
是ヲ吾カ今日ノ愛国同盟ナルモノヽ世上ニ顕ハル第一期(○○○)トナス
烏兎怱々二十年ハ空シク東奔西走ノ間ニ経過シテ未タ新聞紙ヲ発行スルノ運ヒニ至ラサリ
シカハ翌二十一年ノ初春ヲ以テ歩ヲ実務ニ進メンコトヲ期シ乃ハチ同年一月八日ヲ卜シテ
茲ニ結団式ヲ挙行シ機関トシテ「第十九世紀」ヲ発行スルノ議ヲ定メ二月一日ヲ以テ其第
一号ヲ世ニ公ニシテ始メテ吾人カ政治上ノ意見ヲ発表スルニ至レリ是レ即チ吾カ愛国同盟
ノ世上ニ顕ハルヽノ第二期(○○○)ナリ
是ノ時ニ当テ尤モ吾人ノ耳朶ヲ驚殺セシメ吾人ノ心膓ヲ撹破セシメタルモノアリ何ソヤ曰
ク保安条例ナル意外ナル命令ノ突然ニ発布セラレテ幾多憂国ノ志士ハ三里以外ニ退居ヲ命
セラレタリトノ急報是ナリ海外万里之ヲ聞クノ吾人同志ハ是特報ニ接シテ身毛為メニ悚立
シ呆然トシテ殆ント為ス処ヲ知ラサリキ何トナレハ吾人ハ竊カニ政府ノ処置ニ疑惑ヲ抱ケ
ハナリ吾人ハ実ニ我カ政府ハ何カ故ニ日耳曼ノ社会党ヲ鎮圧シ若シクハ露西亜ノ虚無党ヲ
威伏スルノ条例ニ均シキ命令ヲ発セシヤヲ疑ヘリ其後報ノ続々保安条例ナルモノヽ性質ト
其之ニ由テ処分セラレタル志士ノ惨状ヲ詳悉スルニ及ンテ吾人ハ何カ故ニ日本政府カ国家
ノ志士ヲ待ツニ斯クノ如キ条例ヲ以テシタルヤヲ憂ヒ政府ノ為メ国家ノ為メ及ヒ自由ノ為
メニ浩歎大息シテ措ク能ハス愈大同ヲ取リ小異ヲ捨テ彼此結托シテ勢力ヲ養成スルコトヲ
勉メ夙夜国家ヲ憂ウルノ情勃々禁スル能ハスシテ啻ニ之ヲ紙上ニ論述討究スルノミニ止マ
ラス進ンテ稠人公衆ノ前ニ演述スルニ至リ大ニ在桑港及ヒ王府ノ同胞ヲ警醒シテ士気一層
ノ振作ヲ致セリ是レ則チ吾カ愛国同盟ノ地歩ヲ世上ニ占ムルノ第三期(○○○)ニシテ竟ニ今
日ノ基礎ヲ確定スルヲ得タリ
以上陳述スル所ハ今日ノ愛国同盟ナルモノカ如何ニシテ起コリ如何ニシテ発達セシヤヲ概
述シタルモノナリ是ヨリ以降ニ於ケル吾カ団体ノ歴史ハ当時ノ紙上ニ於テ詳カニ之ヲ世ニ
表白シタレハ今更喋々スルヲ要セサル可シ吾人ハ政治ノ出来事ニ関シテ吾カ団体カ如何ナ
ル位置ニ居リ如何ナル事ヲ為シタルカヲ証示センカ為メニ茲ニ二三ノ例ヲ挙ク可シ
吾カ団体カ日本政治世界ノ出来事ニ伴ヒタルハ彼ノ後藤伯ノ大同団結論稍ヤ世上ノ問題ト
ナリ日本ノ政治社会ニ於テ是非ノ論去就ノ説交々起コリ擾々紛々全国為メニ一大風潮ノ波
動ヲ受クルニ当リ愛国同盟ニ於テモ之ヲ議題トシテ会員各自ノ意見ヲ叩キ其結果トシテ吾
カ団体ハ書ヲ大同団結大会議ノ幹事ニ贈リテ同会ノ運動ヲ賛助スル旨ヲ通シ且ツ同会将来
ノ運動ニ向テ一二ノ意見ヲ提出シタルコトアリキ是レ吾カ団体カ後藤伯ノ大同団結ニ向テ
悉ク同意ヲ表シタルニアラス所謂小異ヲ捨テヽ大同ヲ取リ以テ自由主義派ノ一大政党ヲ組
織スルノ必用ヲ感シタルカ為ノミ後藤伯ハ大同団結ノ三大利益ヲ唱道シテ曰ク一ニハ藩閥
政府ヲ顛覆スルノ利益二ニハ国会ニ勢力ヲ占ムルノ利益及ヒ三ニハ強剛ナル外交政略ヲ実
行スルノ利益ナリト吾人ハ当時以為ラク右三件ノ外更ニ数多ノ必用事件ノ存在スルアリト
然レトモ大同派ノ運動ヲ賛助スルノ一点ニ向テハ唯タ右三件ノ利益ヲ唱和スルニ止メ吾カ
団体ハ別ニ信スルトコロノ利益ニ向テ益々将来ノ運動ヲ計画スルコトヲ勉メタリ吾団体カ
今日尚ホ特立独行シテ自由主義三派ノ外ニ卓立シ而シテ却テ三派ノ為メニ政治上ノ一大潜
勢力ト為リ進ンテ自由主義ノ一大活動力タランコトヲ期スルモノハ他ナシ吾カ団体ハ自由
主義ノ尤モ発育セル米国ニ在リテ亜細亜ヲ右ニシ欧州ヲ左ニシテ且ツ政治世界ニ隠見スル
各種ノ新現象ニ就テ深ク省察シ広ク探究スルノ最上便益アルカ為メニ其ノ規画スル所モ亦
タ従テ広大適切ナルコトヲ信スレハナリ
次ニ吾カ団体カ直接ニ日本ノ政治社会ニ関係アル運動ヲ試ミタルハ昨年二月十一日ノ憲法
発布式ヲ祝センカ為メ「マーケツト」街上「セント、ジヨージ」ノ会堂ニ於テ一大演説会
ヲ開キ前桑港領事藤井氏ヲ始メ日本人ノ諸会ヲ集メテ新憲法ノ発布ヲ祝スルト同時ニ在米
日本人民ノ一致共同シテ新日本ヲ経綸ス可キ大義務アルコトヲ知ラシメ大ニ士気ヲ鼓舞ス
ルヲ得タリ是レ亦タ我カ政界ノ一波動トシテ数ウヘキコトナリトス
吾カ団体ハ切ニ条約ノ改正ヲ熱中シテ止マス米国全権公使「ジヨン、スウヰフト」氏カ「レ
パブリカン」政府ノ命ヲ奉シテ日本ヘ赴任スルノ期ニ臨ミ吾人ハ書ヲ新公使ニ裁シテ日米
両国間ノ親密ナル交際ヲ望ミ且ツ日本現時ノ境遇ハ決シテ他各国ノ云フカ如キ不文野蛮ノ
邦国ニアラスシテ対等条約ヲ履践決行シテ彼我ノ利益ヲ全ウシ東西均一ノ自由幸福ヲ享有
スヘキモノタルコトヲ詳述シ公使カ克ク両国ノ間ニ斡旋シテ完全ナル新条約ノ訂盟ニ尽力
セラレンコトヲ望ミタリ此事タル両国外交上ノ要件ト云ヒ特ニ在桑港ノ一政社タル吾カ団
体ノ力ノミヲ以テシタルコトナルカ故ニ果シテ多少ノ功績ヲ奏シタリヤ否ヤハ之ヲ知ルニ
由ナシト雖然レトモ吾カ団体カ日本ノ政治上ニ重要ナル一元素タランコトヲ期スルノ目的
ヨリ云フトキハ事ノ成否ヲ論セス毎ニ適当ナル手段ヲ以テ適当ナル時機ニ運動シツヽアル
コトハ満天下ノ有志諸君カ知了スル所ナリ
昨年大隈伯ノ条約改正案一朝「タイムス」ノ紙上ニ上リテ再ヒ日本全国ノ動揺シタルノ当
時ニ当テ吾カ団体ハ当時ノ宰相黒田伯ニ建議シテ改正条約案中関税権及裁判権ヲ外国人ニ
委ヌルノ非ナルヲ論断スルノ外更ニ進ンテ土地所有権ヲ外人ノ手中ニ占領セシムルノ徹頭
徹尾国家万代ノ不利益ナルコトヲ証明セリ吾人ノ見ル所ロヲ以テスレハ裁判権及関税権ヲ
恢復スルカ如キハ或ハ之ヲ為シ得ヘシト雖独リ土地所有権ヲ外人ニ得セシムルハ到底回復
ノ見込ナキヲ以テ終ニハ是レヨリ帝国独立ノ基礎ヲ傷ケンコトヲ恐レタルカ故ナリ
吾人カ拮据経営スルトコロノモノ微ハ則チ微ナリト雖毎ニ社会ノ風潮ニ先ツテ事ヲ計ルノ
一点ニ至テハ吾人敢テ他ノ諸政派ニ譲ラサルヲ期スルナリ今ヤ本国ノ政況稍ヤ切迫スルニ
当リテ吾人ハ曩キニ前後帰朝シタルノ同盟員諸氏ヲ送ル毎ニ吾団体将来ノ運動ニ付テ計画
スルトコロヲ議シ時ニ臨ンテ適宜ノ計画ヲ為サンコトヲ契約セリ昨年十二月ノ吾カ同盟大
会議ニ於テ愈々吾カ団体ハ内外相応シ遠近相接シテ実地ノ運動ヲ本国ニ試ムルノ時機到来
セルヲ知リ乃チ帰朝ノ同志ヲシテ愛国同盟ナルモノヲ日本ニ設立セシムルノ議ヲ決シ本年
一二月ノ央ヲ以テ愈々設立事務ノ委任ヲ為シタリ是レ実ニ愛国同盟倶楽部ナルモノヽ日本
ニ現起スル原因ナリ
今ヤ東京ニ於ケル愛国同盟倶楽部ハ在米国帰朝ノ諸氏ヲ以テ組織尽ク成リ同心分体ナル吾
カ愛国同盟ト脈絡相通スルノ路開ケタリ而シテ吾カ愛国同盟本部ノ団結ハ日一日ニ隆盛ニ
趣キ盟員モ従テ増加セントスルノ今日ニ当テ吾人ハ吾カ同盟カ将来ニ期スル所ノ目的ヲ再
述シテ之ヲ満天下愛国ノ志士ニ告ケンコトヲ欲スルモノアルナリ
若シ夫レ吾カ愛国同盟員ノ規画スル所ハ自由ノ大義ヲ奉シ愛国ノ精神ヲ発揮シテ大ニ民権
ノ拡張ヲ謀リ内ハ皇室ノ尊厳ヲ保維シ民庶ノ福祉ヲ増進スルト同時ニ外ニ向テ親愛ナル我
日本帝国ノ独立隆盛ヲ厳護シ欧米列国ヲシテ復タ我カ国威ヲ侮辱セシメサランコトヲ期ス
ルニアリトハ業ニ巳ニ之ヲ紙上ニ論シ壇上ニ演シタルカ如シ而シテ所謂国民ノ自由ヲ伸暢
シ国家ノ威厳ヲ保有セントスルハ吾人カ尤モ心胆ヲ砕キ籌略ヲ運ラス所ニシテ吾人ハ将来
ニ於テ必ス之ヲ成功スルノ一大要素タランコトヲ誓ウモノナリ
吾人ノ期スル所斯クノ如ク其レ大ナリ期スル所大ナルカ故ニ其ノ到ラントスルノ最頂上ハ
遥カニ断厳絶壁ノ嶮処ニアリ狂浪奔波ノ渦中ニ在リ故ニ荊棘毎ニ吾人ノ径路ヲ遮キリ風雨
毎ニ吾人ノ舟楫ヲ覆ヘサントス百艱ヲ忍フノ決心アリ万艱ヲ堪ユルノ気節アルニアラサレ
ハ誰レカ克ク所期ノ目的ヲ達スルコトヲ得ンヤ吾同盟ハ斯決心ト気節ヲ以テ夙夜心ヲ国家
ノ経営ニ委ヌルモノニシテ他日或ハ断頭台上ニ鮮血ヲ流スノ不幸ニ逢遭スルコトアル可シ
ト雖吾人ハ自由ノ為メ国家ノ為メ一身ヲ犠牲ニ供スルヲ甘スルモノナリ何トナレハ古ヨリ
自由ハ毎ニ鮮血淋漓ノ間ニ購ヒ得ラレタルノ実例多ケレハナリ吾人ハ他日苦楚百端殆ント
進退度ヲ失スルノ厄運ニ陥イルノ時アルヘキヲ予期ス然レトモ吾人ハ敢テ此厄難ニ当ルヲ
遅疑セサルモノナリ何トナレ天下ハ容易ニ定ム可ラスシテ其ノ之ヲ定ムルノ機運ハ毎ニ窮
極ノ一瞬時ニ在ルモノナレハナリ吾人同志ノ決心斯クノ如ク鞏固ニ吾人同志ノ気節斯クノ
如ク公明ナル以上ハ何ソ復タ荊蕀ノ深キニ懼レ風雨ノ荒キニ屈センヤ故ニ吾人ハ信ス他日
我カ新日本ノ枢機ヲ司トリ能ク自由ノ凱歌ヲ奏スルノ猛将勇卒ハ必ス今日ノ愛国同盟団中
ヨリ出テンコトヲ吾人ノ希望ハ遠大ニシテ悠久ナリ吾人之精神ハ強固ニシテ光明ナリ然レ
トモ吾人ハ敢テ時機未タ熟セス気運未タ回ラサルノ暗夜ニ向テ漫リニ暴挙軽進ヲ為サンコ
トヲ欲スルモノニアラス啻ニ之ヲ欲セサルノミナラス吾人ハ却テ之ヲ戒ムルモノナリ吾人
ノ計画ハ大事ヲ円成スルニ在テ大事ヲ破壊スルニアラサルナリ所謂暴挙軽進シテ勝ヲ未成
ニ察スルノ明ニ乏シキハ是レ唯タ暴虎馮河ノ徒ノミ正々堂々政旗ヲ翻シテ正理ノ戦場ニ臨
ムノ志士ニシテ如何ンソ渠レ鼠輩ノ為ヲ学ンテ可ナランヤ
吾人カ将来ニ於テ果シテ如何ナル手段ヲ取リ如何ナル地位ニ向テ運動ヲ試ムルヤハ之ヲ今
日ニ明言スル能ハス何トナレハ政党世界ノ出来事ハ変幻出没測ルヘカラサルモノ其常態ニ
シテ此ノ複雑ナル世界ニ航行スルノ政社政党モ亦能ク此変幻極マリナキノ大勢ヲ看破シテ
之ニ応スルノ妙案奇策ヲ講画スルヲ以テ最要ノ務ト為スモノナレハナリ然リト雖吾人ハ更
ニ明言ス曰ク吾人ハ宇宙ニ貫徹シ古今ニ連亘シテ渝フ可ラス誣フ可ラサルノ公明正大ナル
自由ノ大主義ヲ奉シテ新日本ヲ経綸センコトヲ誓フ可シ曰ク吾人ハ正理公道ニ由リ不撓不
屈ノ精神気節ヲ養ヒ以テ上来陳述スル所ノ大主義大目的ヲ貫徹ス可キヲ約ス可シ
 
【B−3】活版機器購入義捐金募集のちらし 明治24年2月    三鷹市・吉野泰平氏
 
此劇シキ摶奪競争ノ世ニアリテ吾人ハ宜シク之レニ備フルノ覚悟ナカルヘカラス、知ル可
シ東洋唯一ノ我帝国モ早晩列国競争ノ怒濤激浪ニ捲カルヽノ時アルヲ吾人ハ進ンテ之レカ
警鐘トナリ堤坊トナリ以テ我国人民ノ惰眠ヲ破リ文明進歩ノ潮流ヲ制セントス、而シテ将
来東西洋ノ関係ヲシテ尤モ密ナラシムルモノ我帝国ト北米合衆国ニ如クモノアラサルヘ
シ、然リ而シテ地勢上ト云ヒ実情上ト云ヒ米ノ桑港蓋シ之レカ密接ノ集点トナルヘシ、思
フニ欧洲人ノ移ツテ之レニ住スルモノヲ見ルニ各々本国ヲ愛スルノ情、勃乎トシテ止マス
数十人ノ住ム所必ス倶楽部ヲ設ケ新紙ヲ発刊シ、本国ト気脈ヲ通シ共同一致故国ニ対スル
ノ義気一歩モ他ニ譲ラサランコトヲ期ス、其運動整々感ズヘキモノ一ニシテ足ラサルナリ、
我同胞数千亦彼処ニアリ然レトモ支離分裂未タ一定ノ運動ヲナスコトアルヲ見スシテ常ニ
人後ニ唯々タルハ実ニ洪嘆ニ堪ヘサルナリ余等之レヲ慨シ嘗テ該地ニ愛国同盟ナル一団ヲ
組織シ崎嶇艱難ノ間ニ絶叫シテ聊カ義気ヲ喚起セリ、爾来四星霜粗版ノ新紙ヲ以テ其衷情
ヲ表シツヽ今日ニ至レリ、然レトモ今日ノ時勢豈ニ読ミ難キノ粗版ヲ以テ訴フルノ時ナラ
ンヤ怨ラクハ我々ノ志望モ粗版ト共ニ滅センコトヲ、是ニ於テカ洽ク本国ノ志士ニ訴エ奮
然文明ノ導水器トナリ文明ノ真域ニ入リ本国ノ声価ヲ高メ真開化ノ先唱タラント欲ス希ク
ハ江湖ノ義士仁人為メニ助クル所アランコトヲ
一右新聞紙改良ニ就キ活版器具購買ノ為メ義捐金ヲ仰ク事
一二月中ニ募集シ、三月初旬ヲ以テ決算ノ次第ヲ新聞紙ニテ報告スルコト
                     米国愛国同盟委員
                       井上敬次郎   清原 鉄策
                       海老沼弥三   橋本 義三
                       畑下 熊野   中野 権六
                       中西元治郎   福田 友作
                        京橋区木挽町二丁目十三番地
明治廿四年第二月                         仮 事 務 所
 
 (注)史料B−4の「中西元治郎の吉野泰三宛書簡」に同封されていた。読点は原史料の
   とおりに付した。
 
【B−4】中西元治郎の吉野泰三宛書簡(活版機器購入金の義捐要請) 明治24年2月3
     日                         三鷹市・吉野泰平氏
 
拝啓
其後御無沙汰平ニ御容赦成被下度陳者今回米国ヨリ小生友人井上敬次郎外一名来リ米国ニ
於テ新聞紙発兌スルニ付活字買入ノ為メニテ後来日本ノ必要□□彼れ外国人ニ真正ノ輿論
ヲ示シ□セテ本国ニ向ツテノ注意ヲ促カシ桑港ニ於ケル日本人ノ団結ヲ図ル為メニ御座候
ヘ者恰ク本国有志ノ義捐ヲ仰カン心得ニテ既ニ器械丈ケハ米国有志ニ買求メタリ因テ活字
□本国ニ募ル次第ニテ実ニ美挙ト存シ小生モ委員トナリ専ラ尽心中ニ御座候ヘ者何分貴兄
御賛成被下多少ニ関ハラス郷党諸君ヘモ御通被下可成早急ニ御尽力被下候ハ我等ノ大慶不
加之候甚乍失敬以書面願上候也
別紙趣意書御覧被下度切ニ願上候也
   三(ママ)月三日              中西元治郎
     吉野大君
【封筒表】神奈川県北多摩郡三鷹村野崎 吉野泰三様 御親披 [消印@]武蔵東京廿四年
二月三日チ便 [消印A]武蔵上石原廿四年二月四日イ便
【封筒裏】東京々橋区木挽町二丁目□三番地 二月三日 中西元治郎
 
  (注)「別紙趣意書」は、史料B−3に紹介した。
 
【B−5】中西元治郎の吉野泰三宛葉書(愛国同盟にたいする義捐要請) 明治24年2月
     24日                        三鷹市・吉野泰平氏
【本文】先般御願申上候愛国同盟ノ義捐甚タ恐入候得共友義上在米ノ志士ニ献セサルヲ得
ス誠ニ以テ御迷惑ナカラ何分宜シク願上候尚ホ御面眉ノ上申上候早々
   二月二十四日
【表書】神奈川北多摩郡三鷹村字野崎 吉野泰三様 木挽町二ノ十三 中西元治郎 [消
印@]武蔵東京廿四年二月二十四日ト便 [消印A]武蔵上石原廿四年二月二十五日イ便
 
史料C群
 
【C−1】石阪美那の決意書 年月不明(明治17年か)       与野市・西城崇士家
 
たゝ父を愛する余、かく答へしなれと、孟子論してそ、子のちゝに事るは、志を養と申へ
くそ、元は口腹をやしなふのみと言れし、扨父母のこゝろを安するには、何を最第一とす
へき、ちゝはゝのわか子を思ふ、何ひとのおろかは有らねと、朝夕心を尽して育て、我子
の人と成の、世にも人にも称誉せられ、年頃にも至りぬれは、他へ嫁入らせ、舅姑夫に良
仕へ、其家族親るいにも睦しけれと、心を砕き教るを、子たる者此父母の心を能く体任し、
わか身を修慎み、人に指さゝれぬ様にと、日夜片時許り只々に絶さす心かくへし、身を脩
め徳を積と言事、一朝一夕に成しうへき事ならす、徳は行也と註して、修行日を重ね、年
を積み、遂に我物と成て、ことにのそみ物に接し、何の心を用ひされ共、自然道にかなふ
を誠の徳と申より、此修行中々容易ならす、况て女は、終身父母の膝下に住果るものなら
す、他に嫁して、其夫のいへを天より授りしわか家とすれは、女の嫁するを帰るといふも、
他へ行にあらす、わか家に帰る、と言こゝろ也、然れは生父如の定省心の(以下欠)
 
【C−2】石阪公歴の昌孝宛書簡 明治18年6月24日       与野市・西城崇士家
 
再度即チ廿日出御書拝見仕候当地近況左ニ御報道申上候  当地方へも民情視察乃チ国事
探偵者時ニ来り候由
麦ハ余程不作之由米ハ目下ノ雨天ニテハ地下湿ヒ候故満足ノ結果無之候由
金森村作次郎ナル者金百三十三円ニテ杉及椹買取候由金子ハ来ル三日悉皆納ル候由
其レニ付丸山ニテハ金子入用ノ由
村の氏ヘヤソノ事相談致候処追々盛ンニ致様且又目下ハ頗ル繁忙ナレバ除々ニ可致云々
北村ノ到リシ処ハタデ川村武藤角之助ニ御座候
篠原ニモ一寸面会致候同氏ハ過日出京被致候
猪又剛獵ハ同行二人ト共ニ当村ニ至り候由村の氏ノ話
坂倉奇人ハ余程よろしき由正寿氏ノ話
過日山崎村に失火有之候節小子一寸至り候へ共奇人不出
小子旅行順序
本日廿四日出立藤沢平野へ至り羽鳥村小笠原ニ至り三觜ニ至り鎌倉へ至り泊
鎌倉滞在北村ハ小田原へ先発小子ハ暫時鎌倉ニ居り候
其ヨリ小田原へ至り吉浜ニ至り是レハ北村叔父ノ由其ヨリハ函嶺ヲ越へ三嶋ヨリ先キハ至
ル処寺院ニ宿ヲ求ムベシ
其ヨリ順次名古やニ至り或ハ加賀ニ廻り北陸ヲ運リテ松浦孝松ニ至ル或ハ山陰山陽を越ユ
ル後九州ニ至ルヤモ不計何ニ致セ北村ハ途中ヨリ引退ク人物ナリト勘定致居候
旅費金三円持参   津田ヨリ道中記借り受候故御教示ノ寺院モ相尋可申候   秋ト相
成候
小子長城先生ノ番地失念仕候間尾州橋本三郎迄一寸御報願度此段願上候
岡ヨリ辞書来リ候ハヽ恩孝兄へ御依頼可被下候
津田巌ヨリノ手紙差上候
田舎ノ話ニ 宮ノ脇ナドハ 頗ル困難ノ様子 加山荘助度々来訪私シ方へも御ハチヲ御廻
被下度云々母上へ申居候
又別ニ無之候
村の栄吉ハ近日自由熱心ノ様子ニナト同人ハ家事ハ既ニ整頓シテ身後ハ安心ナル由ニテ死
生平気ナリト云フ又同人ヨリ凌霜舘生徒ノ手本ノ依頼ヲ受ケ候故外史ヲ初メヨリ行体ニ書
送り候
貧民ノ来ルニハ頗ル驚駭ノ事ニ御坐候先日ニ五人乃至七人ニ御坐候
当地方ハ頗ル太平ノ風アリ
小子帰宅候ハヽ金剛寺ニ至り一切経ヲ読了致度存居候
近日ノ様子ニテハ加山丸山位ハ御帰宅ニ相成候ハヽ参ルベク候ハンガ御帰宅御安眠ノ方御
得策ト存候
旅中ノ奇事ハ時々御報可申候ヘ共旅費等ノ事有之候間御心配なく報達ノ至ラザルヲ御承知
可被下願上候
    匆々頓首
   六月廿四日
家厳君 膝下                            公歴
 
【C−3】村野常右衛門の稲垣示宛書簡草稿 明治21年(推定)
                           町田市野津田町・村野順三家
 
分袂之後御起居可相伺之処彼是混雑致シ居為メニ御無音ニ打過候段御宥恕ヲ乞フ示来尊君
始メ御同房諸君愈御安全之由奉賀候次ニ小生出獄後頑健ニ罷在候間乍憚御放神可被下候陳
者御注文之書籍ハ通信所ヨリ不日逓送可仕候又外品ハ両君ヨリ御送致有之候事ト存候小生
帰路大阪三重徳島(之レハ森久保氏□フ)諸士ヲ訪ヒ候処御舎弟君始メ志士ニ面会種々談話
致シ候処何レモ御壮健ニ候間御安意是祈大阪在監ノ菊田士ハ裁縫落合佐伯両士ハ朱丹細工
渡辺士ハ未定年者教授ニ各々就役被致居候又三重在監之魚住内藤山鹿三士ハ看病夫ニ山本
与士ハ紙スキ場誘工者ニ□各々就役御舎弟君窪田赤羽根両士ハ日々読書有之由ニ候
名古屋ニテハ面会ヲ不許可□遺憾之念□ニ□□□□大井小林新井三士ハ壮健館野士ハ不快
之趣難波橋本久野三君ヨリ御注文之書籍ハ(大阪三重在監之諸士ヨリモ注文有之候故夫レ
ト共ニ)県下有志之助力ヲ得調達致シ候ニ付神奈川県有志者総代名義ニテ不日通信所より
御送リ可申上候間左様ニ御伝言ヲ願上候
橋本[削除‐政次郎]君友人海老沼氏ハ桑港ニ在留十九世紀新聞(在留日本人ニテ発足之新
日本之□□□ト云フ)ニ従事致シ居ラルヽ由福田氏ハ同港小学校ニ在学略ホ卒業之上他地
方ノ中学ニ入校勉強之由須田氏ヨリ回答有之候間是又橋本君ヘ御伝言ヲ願フ
天野田代吉村橋本久野難波各君ニ宜シク御鶴声奉希上候
天野君出獄之用意ハ難波山川□川三氏及ヒ八□君ニ□請致□□ニテ□□中ニハ難波君ヨリ
報知可之有候間御配慮無之様御伝言ヲ是又乞
近々向寒之候ニ相成候尊君始メ各君身体御□□専一ニ可奉祈候先ハ右要用而已譲後便ニ候
匆々頓首
  和歌山県和歌山監獄
    在監人 稲垣示殿
 
【C−4】明治日報 明治15年1月24日(一六六号)
 
○泰明学校  昨日は京橋区山下町泰明学校にて同校生徒の小学全科卒業証書及び卒業牌
の授与式を執行されたり当日京橋区長を始め府庁学務課よりも長倉片桐の諸氏及び外一名
又学務委員小野田氏等の臨席あり該証并証牌を受けたる生徒は七名にて其の卒業牌の出来
は銀無垢にて円径一寸七厘余厚さ凡壱分中心に玉を以て桜花を鏤(ちりば)め琥珀(こはく)
を以て蘂(ずゐ)を作りたるものにて之を受るは頗る栄誉と云ふべし又教員の演説生徒の祝
詞等あり其中生徒北村門太郎は席を立ちて空気及び水の組成と云ふ題に付き演説をなし又
同梅村太郎は器械を以て空気と水の組成の実験をなしたる等何れも上出来にてありき
 
【C−5】東京朝日新聞 明治27年5月17日(二八四二号)
 
●北村透谷氏逝く  女学雑誌及び文学界等にて才筆家の名を博したる透谷北村門太郎氏
は昨冬より神経病に罹り芝公園第二十号第三号地(紅葉館の裏手)の僑居(けうきょ)にあ
りて養生中なりし所遂に一昨夜病ひの為に変死せり享年二十七、氏は神奈川県の士族にし
て性質純潔学識宏博なりしに一朝病の為に夭折す嗚呼惜むべし
 
【C−6】やまと新聞 明治27年5月17日(二二八二号)
 
○著述家の縊死  芝公園第二十号四番地に住む神奈川県士族北村門太郎(二十七)と云ふ
は予(かね)て著作を以て業とし平生人に告げて云ふには僕も自から著述家を以て許す以上
は是非万国の人をして吃驚仰天(びっくりぎょうてん)せしめ巴里倫敦(ぱりーろんどん)の
紙価をして是が為めに貴からしめずんばあらず抔と大言を吐きつゝ一間に閉籠って居りし
が夫等の為めか昨年二月中より神経狂ひて療養中の処一昨夜の十時頃遂に裏口なる桜の木
へ兵子帯をかけ美事にブランコ往生を遂たる由
 
【C−7】都新聞 明治27年5月17日(二八〇七号)
 
●芝公園内の縊死(くびくゝり)  芝公園地第二号に住む橋口某の下女が昨朝四時半ごろ
井戸へ水を汲に行くと直向(すぐむか)ふの崖(がけ)の槻(けやき)に白地の単物(ひとへも
の)を着て白のヘコ帯を締て居る男がブランコ往生をして居るのでアラマア大変と驚きな
がら立帰ツて主人に知らせ共に立寄て熟々(よくよく)見ると隣家一号地に寄留する神奈川
県足柄下郡小田原駅万年町四丁目百四十五番地の北村門太郎(二十七)なるにぞ直に北村
方へ通知したので母親、女房も周章(あはて)て駈付け検視を受しが同人は著述を業とする
者にて此程より精神病に罹り一間にのみ籠りて碌(ろく)に口さへ利かねば家内の者は心配
し種種服薬させ居り前夜は十時ごろに床に就きしが何時の間にか飛出して斯(かゝ)る最期
を遂げしならんと
 
【C−8】国民新聞 明治40年2月26日(五三七七号)
 
  ●海外苦学の女史
嫁して夫に後るゝも定まる運とて是非なけれども此瀬戸際に踏み堪(こら)へて立派に世渡
りの道を立て在りし夫の名を辱めぬをこそ真に心掛けある妻と云ふべけれ高踏派の雄将と
して一時文壇に名ありし北村透谷(門太郎)氏が明治廿七年変死したる折夫人皆子(四十)は
忘れ片身の英子(ルビ-ひでこ)(十四)あるにも係らず哀別の涙を包んで奮然米国に渡航し知
らぬ他国に苦学九年具(つぶ)さに憂き艱難を嘗(な)めたる末目出度く光栄ある学位を得て
二月廿一日横浜に帰航したるは治(あま)ねく世の女姓の亀鑑とすべきものあり女史は自由
党の名士石阪昌孝氏の令女にして記者が女史を訪ひたる折は座に令弟石坂孝歴氏あり孝歴
氏は今より二十余年前米国に渡りて太平洋沿岸にあり今年一月帰国したる許りなれば日本
の解らぬ事は女史よりも甚だしとて互に英語にて会話し居けるが女史は又た記者に向つて
最も若々しき活溌なる態度にて英語交りに左の如く語り続けたり
私が外国行きを思ひ立ち知合の宣教師の方に連られて米国に向け横浜を出発したのは卅二
年の六月卅日帰たのが二月廿三日で厶(ござい)ますから其間の日数が丁度七年八ケ月で足
掛九年居つた事になります其中インヂアナ州に四年半オハヨー州に二年半何方(どつち)で
も修学して居ましたがインヂアナ州の方はユニオン、クリスチヤン、カーレツジを昨年の
九月に卒業致しバチエラー、オブ、アーツの学位を得ました素より貧書生の事で学資も充
分と云事には往(いか)ず随分と困つて一日御飯を食はずに居つた事なども厶いました尤も
私の居つた地方には日本人が余り来て居らぬものですから其地方の人が日本人や日本の物
を珍らしがるの珍らしがらないのツて端書一枚でも日本の物となれば非常に珍重致します
殊に戦勝後は左様(さう)で厶いました夫れで男でも女でも大変親切なもので私が困つて居
るのを見ては色々な物を送つて下さる或は又た困つた時は何時でも云つて来いと云つて呉
れる人もありましたが日本人として猥りに貰つたり借りたりするも如何なものか夫れより
は食はずに居る方がと堪へて居ると却つて怒る程なのです殊に校長のアルジ様は涙の出る
程親切な方で其外の方でも同情をして世話をして下すつたので先づ余り困るやうな目にも
遭ひませんでした夫れに昨年からは夏期大会でレクチユアをする事にして私は「新日本の
使命」「過渡期に於ける日本」「日本の習慣風俗」などの題に就いて述べました聴衆は五
千人以上も厶いまして講席は広場の真中で厶いますから皆様が声が届かぬだろうと心配し
て呉れました米国人は日本に関する書物は沢山読むけれども人が話した事の外は信じませ
ぬ講場は学校から二里半許りで馬車で迎ひに来て呉れ三十分の講演で十五弗宛呉るのです
から先づ学費には差支へませなんだ寄宿舎生活は快活で厶いますよ学生には寡婦もあれば
夫人もあり娘もありと云ふ訳で年齢は殆んど定りがない其中には大富豪の娘もありますが
夫れだからとて貴族的な事は少しもありません親から相当な学費は貰い乍ら別に自分で色
々な労働をして金を設ける人も少くない併し夫れを誰れも不思議とは思ひません米国人は
如何に金持でも金は何所までも大切にするので厶います学校は男女混合教育で相互に交際
も致し又男子は道の解らぬ処へ往く時などは其義務として能く送て呉れる又夜遅くなると
担ぐ様にして家まで送て来るが決して男子一人は来ません屹度二人と云ふので概して自由
を尊ぶ丈男女の間に汚はしい関係は決して起りませぬ又寄宿舎でも金曜、土曜の二日夫も
二時から五時までと限て男女の訪問は許す丈けで其他は日曜でも何でも断然面会を禁止し
ます中には余り窮屈だなど不平を滾(こぼ)す女学生も有りますが夫れも多くはありません
学費は一ケ月何程とも極りませんが学校内に文学会や其他の会が非常に多く其の都度盛ん
なゲ−ムをやるので金が要る為に私などは一ケ月三百五十円要つた時も厶いました凡て彼
方(あちら)の父母は娘が十八歳の時までは関渉しますが其後は歳頃(エージ)になつたと申
してもう云ふ丈を云ひ含めて夫れからは干渉しませぬ又た米国は離婚が一番多いと云ひま
すが夫れでも私は米国風の自由結婚に好い処があると思ひます併し女子の読物の制限は厳
重で図書館でも選択が厳しく宜くない小説などは汽車中でも持つて行(ある)いては可(い)
かんと云つてる程です学校では男女の成績は殆んど同じで厶いました私の好きなのは植物
の解剖次に文学で数学は余り好みませなんだが兎に角本科丈は卒業致しました私の此後で
厶いますか未だ之れと云ふ方針も極りませんが当分は日本で何か仕事を求め若し夫れが可
かぬとなれば又た米国へ往く積りで厶います彼方では飢死ぬ様な事はありませんからね娘
で厶いますか今は学校へ参つて居りませんが何(どう)も北村に似て幽欝性(ゆううつしょ
う)で困るので厶います
 
 

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