鶴巻孝雄
本の紹介と書評

  


復刻版 驥尾団子
新井勝紘解説(柏書房・2003年11月刊)

力ある者の傲慢と、時流におもねる者の軽率を、風刺諧謔・滑稽戯言の絵と文で、笑い飛ばしたコミック・ペーパー『驥尾団子』。一見、政治主義的な言説が幅をきかせているかにみえる自由民権運動の時代に、大いに言葉を遊ばせ、謎を満載させた絵を、読み解いてみよとばかりに突きつけて、楽しんでいる、楽しませている。時には高尚で、時には下品この上ないのだが、妙に猥雑な世界は、絵と文を投稿する読者の世界そのものなのだろう。時代を、『驥尾団子』をとおしてながめてみることで、閉塞気味の歴史像から抜け出す手掛かりを手に入れたい、と思う。
                                (推薦文)

                                             

紅一点論
斎藤美奈子著(ビレッジセンター出版局・1998年刊、ちくま文庫・2001年刊)

 “男の中に女が一人”。アニメや特撮、伝記の世界の“紅一点”現象を読み解いて、「たくさんの男と、すこしの女」の社会構造を新鮮に解き明かしている。
 全編、挑発的で、的確。とにかく、段違いにおもしろい。笑いころげる、というとちょっとばかり大げさになるが、苦笑、しのび笑い、大笑いと、大いに楽しめる。しかめっ面してしか読めない本に囲まれている私には、かなりショックでもあった。こむずかしい本を軽々と飛び越えて、現代社会の性差の問題を実にはっきりと納得させてくれる。
 とくに、扱われているアニメや特撮ものは、魔法使いサリーや美少女戦士セーラームーン、機動戦士ガンダムや秘密戦隊ゴレンジャー、エヴァンゲリオン、そしてドラえもんからコナン・ナウシカ・もののけ姫と、20歳前後の若者が、成長に合わせて見てきたものばかり。伝記は、小学校の図書館に並んでいた定番もの。
 若者自身が子供時代に、柔らかい頭脳と感性に、どのような世界を刷り込まれてきたのかを、自己分析するかっこうの読み物だと思う。
(2000年執筆、未公開)
 
 

 アジアのなかの日本史 全6巻
荒野泰典・石井正敏・村井章介編(東京大学出版会、1900年刊)

 “「日本文化」は存在するか?”、との問いを学生に発すると、何を血迷ったことを、と白い目を向けられる。
 「文化」のイメージは少々幅広いのだが、「文化」を国境で区切ることは、きわめて当然と思われているのだ。国境で区切られた「日本」は、遠い過去にさかのぼってまで、疑問の余地のないほど実体的だという認識もたいへんに根強い。「日本文化」が存在するのは、あたりまえで、問い自体に意味を見いだせない、ということになる。
 だが、「日本」も「文化」も検討に値しない分かりきった対象なのか?。私は両方ともに、まっとうに考える必要があると思いこんでいるのだが、ナショナルヒストリーに飼い慣らされた私たちには、たいへんな困難がつきまとう。網野善彦氏の仕事は「日本」について、西川長夫氏の仕事は「文化」について新しい知見を開いてくれるが、『アジアのなかの日本史』全6巻もまた、「日本」をはじめから実体化しないとの立場に立って読み進めていけば、「日本」を限りなく広い場のなかに解放してくれるシリーズだと思う。
(1998年6月執筆、「くすのき」16号掲載)


  

 日本アパッチ族 小松左京著         (角川文庫、1971年刊)

 若いころ、推理小説とSF小説にどっぷりつかった時期があった。気に入った作家の作品は、てあたりしだいに読み、文庫本を高く積み上げて悦に入っていたのだ。推理小説では、ぜひ薦めたいと思う作品は思いつかないが、SF小説には心に残るものが多い。なかでも、人類が背負っている危機の現実(と未来)を、SF的な手法でつきだして見せてくれた小松左京の作品は、かなり衝撃的だった。
 駄作が少なく、長編は読みがいがあり、短編はさらいによい。しかし、とっかかりは『日本アパッチ族』が適当か。戦後の廃墟のなかに登場した新人類〈食鉄人種〉=アパッチ族の開国史的私記の形をとった処女長編で、戦後の代表的なSF作品といえる。
 川又千秋の『火星人先史』とともに、まず第一に薦めたい。
(1996年7月執筆、「くすのき」11号掲載)


 
 
 
参考 大学の図書館報「くすのき」11号には、こんな私の文章も載せた。
 
盛況だった色川大吉先生の特別講演
―学生の感想文を読んで―
 
 教え子である私の授業が、小難しい議論に終始するからでしょうか、色川大吉さんの特別講演「私の世界放浪と学問」は、予想に反して楽しい話だった、と学生には評判だった。
 4月24日(水)の日文主催講演会に先立つ授業で私は、色川さんの民衆思想史研究者としての業績や、水俣の総合学術調査の試み、市民運動のリーダーとしての活躍などをじっくりと紹介していたから、学生が、堅苦しい学者さんの登場を予想したのも、無理はなかったのかもしれない。
 ところが講演は、25年前のキャンピングカー〈ドサ号〉によるユーラシア数千キロのドサ回り旅に始まり、最近のチベット探検、インド旅行まで、たくさんの旅での体験、意外なエピソード、それぞれに個性的な人びととの出会いを中心にしたもので、“どうせ学者の講演だろう”が“これは面白い”に一転し、若い学生の心を引きつけてしまったようだ。
 語りも、溌剌として若々しく、私にとっても、ひさびさの色川節。人生に積極的で、とにかく行動的、そして少々(いや、大いに)自信家、というあたりは、学生にもすぐ理解されたようで、その上、ロリコン趣味まで強調するのだから、色川さんに、学者に似合わない強烈な個性、人間的な魅力を見いだし、心開いて聞き入ったのかもしれない。
 学生の感想文には、予定のない旅へのあこがれや、自転車による世界放浪の実践者鈴木くんの気負わぬ人生にたいする衝撃などが、かなり長文で書かれていた。また、民衆史家としての学識の上に、比較文化論的な視座をおりまぜての話もあり、異文化のもつ衝撃性と異文化への向かい合い方を、改めて考えようとする姿勢を見せる感想も多かった。ガンジスを流れる少女の遺体と、遺体をついばむカラスの話は、その決定的な呼び水だった。
 学生の感想文を改めて繰ってみると、この講演会が、興に乗った色川さんと心開いた学生によって作り出されたものだと、つくづく思う。この私の印象は、ちょっと独りよがりかもしれないが。
 
  

 『房総の自由民権』 佐久間耕治著       (崙書房、1992年刊)

 “歩きながら考え、考えながら歩き続けて”というサブタイトルには、房総の自由民権運動の足跡をたんねんに追い続けてこられた佐久間さんの、歴史に向かいあう姿勢が明瞭にあらわれていて、本書に良く似合う。
 地域の自由民権運動研究には、とにかく、発見の感動がある。
 時代との葛藤に身を焦がした人びとの歴史は、朽ちて埋もれたかにみえながら、汲めどもつきぬ地底の大江のごとき流れのなかで、地表に流れ出る時を待っているのかもしれない。その流出の手助けが、歴史家としての佐久間さんの仕事なのだが、そこで発見の喜びを享受するのは、歴史家としての特権だろう。佐久間さんは時には、一足遅れで、貴重な史料の散逸に立ち会わなければならなかった苦い失敗を経験し、その悔恨を記している。しかし、新しい発見の感動が随所にあらわれ、それが、活き活きと人びとが活動していた時代を浮かび上がらせている。
 読者もまた、発見の感動を共有して、かつて地域の人びとがもっていた活力や創造性に想いをはせることができる。
 おそらく、本書の刊行を機に、房総の自由民権研究はいっそう緻密さをまし、全体像の解明にむけての歩みを早めることだろう。
 また、全国的にみて民権研究は、従来ほどの勢いを失っているかに見え、地域からの新しい問題提起がより重要になっている。
 歩きながら考え、考えながら歩き続けてきた佐久間さんの役割は、今後いっそうの重みを増してくることと思われる。
 本書が、多くの読者を得て、佐久間さんの熱意と成果が受け入れられ、佐久間さんにとっても、より広く歩き、より深く考える契機となることを祈りたい。
(佐久間さんの本の「序文」として執筆したものです。)


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