いつ雲浜獅子と名付けられたか

はじめに

雲浜獅子は、もともと埼玉県川越市石原町の
観音寺に奉納されていたささら獅子を、1634寛永11年
酒井讃岐守忠勝公が、若狭小浜に国替えの際、連れて来たこ
とにより当地に伝わっている。
川越市石原町高沢山妙智院観音寺は、比叡山の末寺で弘法大
師の草創にかかるもので慈覚大使の再興の所で、しかも御水
尾天皇の勅願所でもある。本尊は大悲観世音菩薩で、後陽成
天皇の慶長12年3月、西暦1607年今から401年前、
観音寺で普門品の経旨に則り、悪魔を降伏し、災難を消除し
て国利民福を祈り平和を謳歌せしめようとする趣旨に基づい
て、観音祭にささら獅子舞が演じられたのが始まりとされる。

なぜ酒井讃岐守忠勝公は獅子を連れてきたか

埼玉県川越市には、石原町以外にも獅子舞は
たくさんあり、また獅子舞以外にも山車など勇壮なお祭りの
出し物があるにもかかわらず、なぜ石原町のささら獅子を
国替の際に連れてきたかについては、雲浜獅子保存会一行が
昭和33年4月に川越市役所に訪問した際の記録
「川越簓獅子舞由来記」の中に次のように記されている。

「抑々酒井候は代々観音に信仰が深かったのであるがわけ
ても忠勝候が斯く獅子舞を賛美賞愛されたのは一つには候の代となって
最初の年即ち寛永4年3月例祭のみぎり城内において演舞せる
折柄はからずも幕府の上使に接し10万石加増の恩命を蒙った
という因縁からである。この光栄に浴してから以来候
の観音に対する信仰、獅子舞に対する賛美は
益々深くなった。そして国替の時には獅子のみならず演技に熟達
せる者数名を引き連れて之を関東組と称して扶持米を給した。
尚又臣下に命じて技を練らしめ観音寺の祭の日を同じうして祭礼
を行い武州在城当時をしのばれた。その当日又もや加禄の吉報に
接しかつ大老の重職に任ぜられたので信仰心は更に深くなったという」

ちなみに、酒井讃岐守忠勝公の弟に酒井忠吉(さかいただよし)
がいるがその娘が吉良上野介の母である。

江戸時代の獅子の様子。

江戸時代、若狭の獅子の様子を記した文献は、あまり見当たらないが、
江戸時代の末のころに「諸国風俗問状」と題する木版印刷の質問書を
配布して、国内各地からその地方の答書を求めた調査事業が行われた。
文化12、3年西暦1800年のころである。「若狭国小浜領答書」
の中に広峰神社の祭礼、祇園祭の様子が記されていて、その中に現在
の獅子舞の様子がしるされている。その呼び方は単に獅子とされてい
て、獅子の一行を関東組という、と記されている。
また嘉永4年1851年に小浜藩士田中岩五
郎貞正が川越にある先祖の墓参りをした時の記録の中にも石原町の
獅子舞に関する記事が
あったのを、元小浜藩右筆の山田吉令が明治17年に書き写した
書状に、若州の獅子と呼ばれていたように記録されている。

明治時代
明治42年、皇太子の北陸行啓があり小浜の
三匹獅子舞の一組が、福井県下の余興の一つとして出演した。
その時、雲浜壮年会で獅子舞の師匠であった渡辺亨氏が、
演技や歌詞など、その概要を記した資料が、「御来国に就いて 
川越獅子演藝の大略」とした文書であるが、これらの記述からも
当時「川越獅子」と呼ばれていた事がわかりる。

大正時代

大正4年1915年10月1日から12月1日までの80日間、
京都岡崎公園にて大正天皇即位の大礼を記念して、
大典記念京都博覧会が開催されたその時、この絵葉書三点セット
が作られたようだ。正にこの時、「若狭固有 雲浜獅子」という
名称が渡辺享氏によって付けられたと推測される。すなわち
「雲浜獅子」という名称はこの大典記念京都博覧会に、福井県
代表としてお祝いに出演するべく、関東の川越獅子ではあるが、
若狭の雲浜に伝承された獅子として、若狭固有、雲浜獅子と
名付け、お祝いに駆けつけたと考えられる。

また渡辺享氏は大正4年9月3日に、「若州獅子舞来歴の大略」
という文書を残されていて、この文書には、明治42年の
北陸行啓の際小浜町の一組は福井県下の余興一部に加わり台覧の
栄を賜りたれば、これもまた因縁厚き次第なり、と記している。
また渡辺享氏は、自ら「若州獅子舞、教諭」と称している。

昭和時代。

昭和3年、1928年昭和天皇即位大礼を祝して
大礼記念京都大博覧会が、従来の岡崎公園に加え二条城北の
京都刑務所跡地、恩賜京都博物館の3か所が会場で催され、
雲浜獅子も出演している。

昭和45年7月、明治、大正、昭和の初期に
かけて渡辺享氏が記された文書を、小浜市史
編纂室で編集した「雲浜獅子之記録」が発行された。
この文書の中には「竹原獅子舞」という項目もあり、
大いに研究の期待されるところである。

このように先輩方の様々なご努力によって、現在の
雲浜獅子があるのだということを肝に命じたい。

平成の大発見

平成20年9月15日
「うちにこんなもんあったんや」と近所の森口さんから、
古い絵葉書と国鉄バスの切符を見せていただいた。
「古いものやし、コピーしておいたらどうや」と言われた。
森口さんは、先代が区長をされている時、雲浜獅子が
「福井県無形民俗文化財」を受けたり、またその先代の方が、
一番町の獅子頭製作に当たられたりと古くから雲浜獅子に
関わりを持ってこられた家柄だ。
その絵葉書の入っている封筒の表書きには、
「御大典記念」の文字と若狭固有、雲浜獅子の文字が印刷されていた。
自力で調べたところ、どうやら大正、昭和の
天皇が即位された時には、御大礼が行われるのが、通常のようだ。
はたしてこの絵葉書が
作成されたのは、いつなのか正確に調べたいと思い、
若狭歴史民俗資料館の垣東氏に
現物を持っていき、調べていただくようお願いをした。

平成20年10月25日

若狭歴史民俗資料館で、「獅子頭」展が始まった。
開会式には、県議会議員さんや市長さんなど、
来賓の方と招待された人がたくさんお見えになった。
雲浜獅子からもテープカットに町内の大学官舎に住んでおられる、
先生のお子さんに、大役を務めて貰った。
その後、獅子頭の会場で獅子についての説明を受けた。
同日、昼から垣東氏より、絵葉書は大正4年の大典記念
に作られたものにほぼ間違いないという説明を受けた。

平成20年12月3日

なぜ、「雲浜獅子」という名称をいつからつけたのか、
にこだわり続けてきたのか?

昭和51年3月7日発行「えちぜんわかさ」
2号において、当時小浜市大宮在住の鈴木氏が、
「小浜における川越編木獅子について」という論文を発表された。
その論文の主旨は、昭和32年雲浜獅子の福井県無形民俗文化財の
選定にあたり、同じ関東組の流れをくむ、小浜立地区の獅子舞群の
中で、なぜ一番町の獅子だけが選定をうけることになったのか、
疑問を投げかけるものであった。
そしてさらに雲浜獅子の名称も文化財選定にあたっての造語では
ないかとも推論されていた。これに対して私たちの先輩の内角誠一氏は、
昔から雲浜獅子という名称はあったし、その証拠となる絵葉書もあるはずで、
いつかきちんとご説明申し上げたいとずっと口癖のように言い続けながら、
結局思いが伝わることなくこの世を去られたのである。
この絵葉書の存在が明らかになってから、雲浜獅子保存会は鈴木氏に
連絡をとり、平成20年12月3日一番町の「雲浜獅子会館」において
雲浜獅子は大正4年に名付けられたことを前述の絵葉書等の資料をもって
説明し鈴木氏に確認納得していただいた。(出席者、鈴木氏、小川会長、
宇田川副会長、木戸)
その後、この絵葉書を持って内角氏宅へいき、事の経過を報告し、
絵葉書を仏前にお供えしたのであった。

まとめ

寛永11年1634年、武州川越から国替によって若狭に連れてこられた
獅子は、明治42年1909年までは、「獅子」もしくは「川越獅子」
と呼ばれていましたが、大正4年1915年に大正天皇即位の大礼。
大典記念京都博覧会に参加するにあたり「雲浜獅子」と名乗るようになったと考えられる。