◎前田達明教授の「過失論」

最終更新日2004/08/17 08:33

参考文献:

前田達明「不法行為帰責論」

前田達明「民法Y2(不法行為)」<青林書院>

「民法(7)」有斐閣双書                     

  便宜上、2004/08/17 08:33    の加筆・訂正箇所につきましては、青字で表記しています。重要な個所は赤の太字斜体で表記します。

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 通説が「過失」とは心理状態であるとするのに対し、前田達明教授は、詳細な判例の検討を通じて、「過失」とは行為義務に違反することであるとされています。以下、前田達明著「『民法Y2』(不法行為)」<青林書院>において展開されている「過失論」を簡単ではありますが、検討してまいります。

一、不法行為における「行為」概念

 まず、前田教授は、過失論を検討する前提として、社会一般の「行為」という概念から出発し、不法行為法上の「行為」という概念は何かを検討されています。

 前田教授の言葉を借りれば、民法七一三条が、「心神喪失ノ間ニ他人ニ損害ヲ加ヘタル者ハ賠償ノ責ニ任セス但シ故意又ハ過失ニ因リテ一時ノ心神喪失ヲ招キタルトキハ此限ニ在ラス」と損害賠償責任が発生しない場合を規定しているが、この規定は、「人は、自己の意思活動に起因しないことに対しては責任を負わない」(前田達明「不法行為」青林書院20頁)ということ意味しているのであり、不法行為上の責任を負う行為とは、自らの「意思に基づく人間の動作」、すなわち、「意思の力による外界の支配・操縦」する行為が、不法行為法で問題となる「行為」なのである(前田達明・有斐閣双書「民法(7)」102頁以下)。

 しかし、前田教授のように、不法行為法上の責任を負う行為を、「意思に基づく人間の動作」、すなわち、「意思の力による外界の支配・操縦」する行為と定義しますと、不作為が問題となってきます。たとえば、@Bと格闘して殺害したAが、Bの投げた燃木尻の火が、藁に燃え移ったのを見たが、Bの死体や証拠を隠滅するからと考えて、容易に消し止められたのに放置し、家屋を全焼させた場合(大判大正7・12・18)とか、あるいは、A踏切警手が、居眠りをしていて遮断機を下ろさなかったために、通行人が轢かれて死亡したという場合です。

 この問題に対して前田教授はどのように解決されるかと言いますと、前者@の例の場合、判決も、「消止ムヘキ法律上ノ義務ヲ有シ且容易ニ之ヲ消止メ得ル地位ニ在ル者カ其既発ノ火力ヲ利用スル意思ヲ以テ鎮火ニ必要ナル手段ヲ執ラサルトキハ此不作為モ亦法律ニ所謂火ヲ放ツノ行為ニ該当」するといっていことや、火を消さないでおこうとして意思決定して、自己の身体を「消さないでおく」という方向に支配操縦していることから、「行為」があるといえると解されています。しかし、後者Aの例の場合は、遮断機を下ろさないという意思決定はない訳ですから、いわゆる過失による不作為は不法行為の大問題となっています。

 このような行為概念を出発点として、前田教授は、「故意」・「過失」を検討されていきます。前田教授の場合は、帰責根拠の相違に着目されて、「故意」と「過失」という概念を明確に分けて議論されています。

 

二、故意

 前田教授は、故意とは、「『権利侵害』を目指して、自己の身体を含めた外界を支配操縦する目的意思」であると定義され、「この『権利侵害』という社会的法的に『マイナス』と評価される『悪結果』を目指している意思であるゆえに、法的に非難され、その『悪い意思』が、『意思ドグマ』により、損害賠償という法的サンクションを行為者に課す根拠となる」のであり、「このように、法的に非難される『悪い意思』を帰責の根拠にするのが、『過失責任の原則』(Verschuldensprinzip)」であり、故意不法行為においてのみ機能するものである。」(前田達明「不法行為Y」青林書院25頁〜26頁)と解されています。

 そのうえで、「故意不法行為において、付随的な結果(したがって付随的目的)も、行為支配の中に取り込まれているのであるから、その結果も帰責される。たとえば、他人の財物を奪うつもりで、その人の頭を棒で殴るという場合、傷害や殺害は直接の目的ではないが、それも『認容』するという形式で、行為支配の中に取り込まれているから、行為者は、負傷や死亡についても責任を負う」(前田達明「不法行為Y」青林書院26頁)ことになると解されています。

 それでは、故意が認められるためには、違法性の認識が必要か否かが問題となりますが、その点について、前田教授は、立証責任には差がでるであろうが、大きな実益はないとされる。その理由としては、故意は「権利侵害」の目的意思であるから、違法性の認識を要件とすると考えることも可能であるが、故意の要件として違法性の認識が不要であるとしても、責任能力のところで、違法性の認識可能性を要件とするならば、結局、不法行為の要件全体としては必要ということになるからだ、とされている。

 

三、過失

1.過失の意義

 通説は、ドイツ民法学の影響を受けて、過失を「自己の行為により権利侵害という結果の発生することを予見し得べきであるに、不注意のために、其結果発生を予見しないという心理状態である」と説明し、この「不注意」すなわち「意思の緊張を欠く」という点に法的非難の根拠があり、そして、この「意思」の態様が帰責根拠であるということで、故意不法行為と同じく「過失の不法行為」においても「意思ドグマ」に基づく「過失責任の原則」が妥当すると通説は考えています(前田達明「不法行為Y」青林書院29頁)。

 この通説に対し、前田教授は、@立法者が、「為すべきことを為さぬとか或は為すべからざる事を為すとか又は為すべきとを為すに当って其方法が当を得ないとかそういう場合を総て過失とする」と説明しており、ここにいう「為すべきこと」「為すべきでないこと」とは、法的なサンクション(損害賠償)を前提としているから、当然、過失は、法的な作為義務違反・不作為義務違反であると考えられていたことを指摘した上で、さらに、判例を詳細に検討され、A判例も、過失を結果回避のための行為義務を尽くさなかったことと判示していると分析され、過失とは、結果回避義務違反であるとされる、と通説の考え方を批判される。

 

2.過失の内容

(1)注意の対象

 前田教授は、過失を結果回避義務違反とする立場から、注意の対象とは「結果の予見」なのか「結果の回避」なのかという対立についても、「結果の予見」が問題となるのは、結果が予見されれば、それを発生させないようにせよと命ぜられるからであるが、@「結果の予見」だけでは意味がなく、予見の後に、結果を発生させないようにする義務を設定する方がより重要であり、Aより広く適切な把握といえるし、B「認識ある過失」も「過失」という扱いにするのであるから、結果回避義務違反を過失とするのが説明に便宜であるとして、注意の対象は、「結果の回避」と解しておられる。逆に、注意の対象を「結果の予見」ということにすると現代社会においては、大抵の社会的行為は何らかの「権利侵害」の可能性をもっているから、殆どの場合、「過失ある行為」となってしまい、それでは社会の常識にあわないことからも注意の対象は、「結果の回避」であると解されている。しかし、もっとも、それが行き過ぎると企業活動の自由を許し過ぎて産業保護に偏することになることから、行為の「停止」をも含めて、結果「回避」の程度を具体的類型において操作するならば、予見可能性説と大差ないこととなるとして、前田教授は結果回避可能性説を採用されている。

(2)注意の内容(過失は「心理状態」か「行為義務」か)

 前田教授は、過失の核を「心理状態」とする立場と「行為義務」とする立場の対立についても、このような対立がどのようにして生じたかを検討された上で、@「過失」を行為者の内心的な「心理状態」であるとすると、その内心的な態度は、立証が容易でないこと、A刑法の世界においても、過失は「行為義務違反」とされていること、B裁判は、当事者を説得する機能を果たさなければならないが、このことを過失についてみると、被害者(原告)が「加害者は、あのとき意思の緊張を欠いていた」と主張したとき、加害者が「いや、意思を緊張させていた」と反論すれば、裁判所が、単に「意思を緊張させていなかった」と述べても、説得力はなく、「かかる場合は、権利侵害発生防止のために、これこれの処置をしうべきであった」と述べる方が説得力があることなどから過失とは「行為義務違反」のことではないのかと結論づけられている。そして、過失の帰責根拠を、「信頼原則」、すなわち、社会の他の構成員が期待する行動をとるであろうという信頼を行為者が裏切る点に求めらておらせる。

(3)行為義務の内容

 以上のように、前田教授は、過失とは結果回避義務に違反することであると解されているわけですが、その結果回避義務の有無を決定する際に考慮される要素について、以下の四つの要素を考えておられる。

 @第一の要素は、当該利益侵害発生の危険は誰の行為支配範囲に入るかを考慮しなければならないとされる。その中でも、重要な要素は、(@)誰の行為に伴う危険であるか、(A)誰がその危険をより容易に防止し得るか、ということである。

 A第二の要素は、当該危険の程度、すなわち、事故発生の可能性の大小が行為義務の存否、高低を決定する、とされている。

 B第三の要素は、被害法益の重大さである。ただ、ここで注意すべきは、この被害法益というのは、当該事件での当該被害法益ではなく、抽象的にとらえられたものであるということである。たとえば、わき見運転して歩道に乗り上げ、通行人を死亡させた場合と、通行人はいなかったが他人の犬を死亡させた場合とで、回避義務の内容は異ならないのであるとされる。したがって、当該行為から類型的に、どの様な法益が侵害される可能性があるかという形で考量される。そして、当該具体的被害法益は、「違法性」の問題として考量されると解されている。

 C第四の要素は、行為義務設定によって制限を受ける利益である。この利益の考量は、当然、行為義務の低下もしくは否定的ベクトルとして働く(たとえば、幼児の踏切事故について、電車の速度制限について、正確なダイヤにより、しかも高速でかつ安全に列車を運行すべき高速度交通機関の公共的使命が対比すべき利益となる。最判昭和46・4・23)。

 前田教授は、以上の要素にどれだけのウエイトをかけるかは、結局、価値判断の問題であり、当該裁判官に人格化された時代精神によるといわざるをえない。すなわち、当該裁判官ということにより、裁判の個別性を認め、時代精神ということで、判断の普遍性を保障するのである、されている。

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Revised: 2002/12/01 .