便宜上、2004/08/17 08:33の加筆・訂正箇所につきましては、青字で表記しています。重要な個所は赤の太字斜体で表記します。
わが民法七○九条は、「故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス」と規定し、@「故意・過失」、A「権利侵害」(ないし「違法性」)、B「損害の発生」、C「権利侵害」と「損害発生」との間の「因果関係」、という要件の存在が不法行為による損害賠償請求権の発生要件であると規定している。そこで、このページでは、不法行為責任の成立要件である@「故意・過失」について「不法行為法入門」よりも、もう少し詳細に検討してみたいと思っています。
1.故意
通説は、「故意」とは一定の結果の発生すべきことを知りながら、敢えてある行為をするという心理状態であると定義しています。その後の通説は、結果発生を意欲するまでの必要はないと考えていますが、故意が認められるためには、故意の要素として「加害の意思」を要するか否かについて、故意が認定されるためには、権利侵害あるいは違法な法益侵害の認識で足りるか(認識説)、その認識に加えて認容することを要するか(認容説)について見解が分かれていますが、「ある行為によってある結果が発生することを認識しながらその行為を行なうというのは、その結果の発生を少なくとも認容しているというべきであるから認識か認容かという議論は意味がない」(森島昭夫・前掲一五九頁、牛山積「不法行為」(篠塚・前田編民法9「新・判例コンメンタール」)一〇頁。)と考えられます。
それよりもむしろ、問題なのは、認識の対象について客観的に違法と評価される事実を認識していれば足りるのか、それともその事実が違法であるということも認識していることあるいは違法の認識可能性を必要とするかについて対立です。この対立は、例えば、騒音を出して近隣に迷惑をかけている工場がある場合を考えてみます。工場としては、騒音被害があることは認識しているが、その程度の騒音では取締法規違反にはならず違法ではないと信じて操業を続けている場合に、工場側に対して故意を認め得るのかという問題が鮮明化してきます。このような場合を考えますと、故意と言い得るためには、違法性の認識ないし認識可能性は必要だと考えられます。そして、「故意」の帰責根拠については、権利侵害という社会的・法的にマイナスと評価される悪い結果を目指している意思であるゆえに、法的に非難されることになると考えられています。
ほとんどの判例は、故意の認定に消極的であり、不法行為責任成立のうえでの争点は過失の存否であると考えられますので、主に「過失」に絞って、以下で検討することにします。
2.過失
通説は、「過失」とは結果の発生を知りうべきであるのに(=結果の予見可能性があるのに)不注意のためそれを知りえないである行為をする(=結果を回避しようとしなかった)という心理状態であると解しています。このように過失を心理状態と解することは、近代市民法を貫く私的自治の原則の不法行為法上の表現形式としては当然のことであると従来考えられてきました。そして「過失」による不法行為責任の帰責根拠については、「不注意」すなわち「意思の緊張」を欠く点が法的に非難されると解されてきました。通説も、判例も、過失の有無を行為者の具体的な能力に基づいて判断する(=具体的過失)のではなく、その行為者(=加害者)の属する職業や地位などにおいて期待される一般人・平均人の能力を基準として判断する(=抽象的過失)ことを承認してきたことから(過失の客観化・定型化)、理論的にいうと過失を心理状態とする立場から乖離することになっているのではないかと言われています。
ただし、ここで「過失の客観化」といいましても、それは過失の判断の「枠組み」についての客観化、すなわち意思の緊張を欠いたか否かを判断する基準として一般人・平均人の能力を基準とするという意味であって、過失の判断の「対象」は依然として「心理状態」とすることは理論的にも可能であるように思われます(牛山積「不法行為」(篠塚・前田編民法9「新・判例コンメンタール」)一二頁)。
「過失」とは、結果発生を予見すべきであるのに不注意で予見しなかったという心理状態であると解する通説の立場からは、予見可能性のあるような結果についてはその発生を防止ないし回避すべき作為義務ないし不作為義務が当然にあるという解釈を導き易いのです。このように予見可能性を過失の中心的内容と考える立場を「予見可能性説」と呼び、過失論において通説的な地位を占めているといってよいと思われます。
これに対して、判例は一般に、民法制定当初から、過失とは、一種の行為義務違反であると定義してきたと前田達明教授からの指摘があります。そして、このように過失を一種の行為義務と捉える判例の傾向は、結果の発生を回避することが可能であり、かつ、その回避義務を課すことが社会的に妥当視される限度において義務を負うという解釈論を導くことになるわけです。すなわち、大阪アルカリ事件大審院判決において「化学工業ニ従事スル会社其他ノ者カ其目的タル事業ニ因リテ生スルコトアルヘキ損害ヲ予防スルカ為右事業ノ性質ニ従ヒ相当ナル設備ヲ施シタル以上ハ偶ゝ他人ニ損害ヲ被ラシメタルモ之ヲ以テ不法行為者トシテ其損害賠償ノ責ニ任セシムコトヲ得サルモノトス何トナレハ斯ル場合ニ在リテハ右工業ニ従事スル者ニ民法第七百九条ニ所謂故意又ハ過失アリト云フコトヲ得サレハナリ」と判示して「相当な防止措置」を施した以上は、たまたま他人に損害を与えても、賠償責任を負わないという解釈を打ち出すに至ったてしまったのです。この立場は、過失がなかったといわれるためには、技術的・経済的な意味での最善の防止措置・回避措置をとることを要するが、行為そのものを差し控えるという不作為による回避を当然には含まないものと解されています。この立場を「回避可能性説」と呼んでいます。
近代市民法社会における「活動の自由の保障」の理念から、「主観的」に「意思の緊張」を欠いていたとして法的非難を受けない限りは損害賠償責任を負うことがないという責任制約の役割を「過失」という要件は果たしているのです。
3.過失の構造論の動揺
通説においては、「過失とは、その結果の発生を知るべきでありながら、不注意のためにそれを知りえないで、ある行為をするという心理状態」と定義され、そこには「知るべきでありながら」という注意義務が明示されていますが、それは「認識」の前提としてであるにとどまり、過失そのものは、心理状態という主観的な「事実」として捉えられてきました。ところが、注意義務の基準が当該行為者ではなく、一般人・平均人の能力が基準とせられ、過失が客観化・定型化されるに伴い、過失を「結果回避義務」違反として把握するべきであるという立場が出現するに至り、また、従来不作為による不法行為責任を問う場合、作為義務違反が「違法」要件として考えられてきたわけですが、「義務違反」という一つの概念が何故に不作為による不法行為責任では「違法」要件に、作為による不法行為責任では「過失」要件にというように異なる位置づけをされてしまっていのかおかしいとして結果回避義務を不法行為の主観的要件である「過失」に位置付けることは適当ではないという批判があり、過失論が動揺しています。
三、過失論をめぐる各学説
最終更新日:2004/08/17 08:33
ここで取り上げる各学説は、「不法行為法学の混迷」(沢井裕)と言われる程までに、諸説が対立しています。そこで、微力ながらそれら学説の中から過失に関する代表的な学説を取り上げ、今後の批判的検討の足がかりとしようと思っています。
1.前田説 ![]()
2.平井説

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Revised: 2002/12/01
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