「権利侵害」(違法性)
最終更新日:2004/08/17 08:33
便宜上、2004/08/17 08:33の加筆・訂正箇所につきましては、青字で表記しています。重要な個所は赤の太字斜体で表記します。
「二、2.『通説における違法性論の展開』」(1999/01/26 21:30)、「名誉権侵害、プライバシー権侵害」(2000/07/30 10:55)を追記しました。
一、権利侵害(違法性)
不法行為責任の成立要件「権利侵害」についてですが、旧民法財産編では、現民法七○九条に相当する三七〇条が「過失又ハ懈怠ニ因リテ他人ニ損害ヲ加ヘタル者ハ其賠償ヲ為ス責ニ任ス」と規定していたことから、現行法の「権利侵害」という要件はなかったのですが、「唯損害サヘアレハト斯フ云フ風ニ致シテ置キマスルト云フト、権利ノ侵害ハナクシテ損害ヲ他人ニ及ホシタト云フ場合マテ這入ッテ其不法行為ニ依ル債権ト云フモノノ範囲カ甚タ不明瞭ニナリハ致シマスマイカ」として新たに入れられた要件です。この「権利侵害」の要件を厳格に解すると不法行為制度による救済の範囲が狭きに失するということを学説も意識するに至り、判例上も、学説上も、解釈によって「権利侵害」という要件を「違法性」に置き換えたと評されている。しかし、昭和四〇年代に入り、この通説的理解が厳しい批判を受け「不法行為法学の混迷」とまで言われるほど学説の対立を生んでいます。
二、 「権利侵害」から「違法性」へ
民法七○九条は、不法行為責任の成立要件の一つとして「権利侵害」を規定しているが、これを字義通りに解するならば、他人に損害を加えてもそれが「権利」に対する侵害でなければ、損害賠償責任は生じないことになる。この「権利侵害」という要件は、前に述べたように旧民法の規定では不法行為の成立する範囲があまりに無限定となり過ぎるおそれがあるということで、新たに成立要件に入れられたものであった。すなわち、不法行為の成立を既存の権利(例えば、物権・債権・身体・名誉・自由・生命など)が侵害された場合に限定することによって、無制限に不法行為責任が成立することを防止し、そのことによって個人や企業の活動の自由を確保するという自由主義的要請に応えようとしたものである。
学説と判例の動向は不即不離の関係にあるので、先ず、判例の動向を概観することにします。
1.判例の動向
「権利侵害」という要件が不法行為責任を認めるうえで不当な障害となった悪例として桃中軒雲右衛門事件(大判大正三年七月四日刑録二○輯一三六○頁)は、あまりにも有名です。この事件は、当時わが国の浪曲の第一人者桃中軒雲右衛門の許諾なしに、雲右衛門の浪曲レコードを無断複製した者に対し、雲右衛門のレコードの製造販売権を持っていた者が、著作権法違反を理由とする告訴ならびに付帯私訴がなされた事件で、純粋な民事事件ではないが、不法行為による損害賠償を求めた事件です。
大審院は、先ず、浪曲が著作権法の保護に値する権利か否かを検討して、「浪花節ノ如キ比較的音階曲節ニ乏シキ低級音楽ニアリテハ演奏者ハ多クハ演奏ノ都度多少其音階曲節ニ変化ヲ与ヘ、因テ以テ興味ノ減退ヲ防キ、聴聞者ノ嗜好ヲ繋クノ必要アルヲ以テ、機ニ臨ミ変ニ応シテ瞬間創作ヲ為スヲ常ト」するものであり、旋律の定型性を欠くものであるとして、浪曲が著作権法が保護する音楽的著作物であることを否定し、浪曲レコードの無断複製が「正義ノ観念ニ反スルハ論ヲ俟タサル所ナリト雖モ、…之ニ関スル取締法ノ設ケナキ今日ニ在テハ之ヲ不問ニ付スル外他ニ途ナシトス」としつつも、著作権の侵害がないので、即ち、不法行為責任が成立しないので、損害賠償も認められないと判示しました。
この判決のとった解釈態度、すなわち被告の行為が正義に反するものだとしても、原告に「権利」がない以上不法行為が成立しないとする解釈態度は、それまでの判例のなかでも著しく狭いものであるとして、批判を受けました。
雲右衛門事件判決とは異なり、侵害客体が法律上の権利とはいえない場合であっても、「法律上保護すべき利益」の侵害があれば不法行為が成立するという解釈を打ち出したのが大正一四年のいわゆる「大学湯事件」(大判大正一四・一一・二八民集四巻六七○頁)の判決でした。この「大学湯事件」は、大学湯という風呂屋の「ノレン」を買い取り、その建物を賃借して風呂屋の営業をしていた者が、その建物の賃貸借の合意解除の際に、大学湯という「ノレン」ないし「老舗」を売却しようとしたのに対し、賃貸人がその建物を第三者に賃貸して営業させたために、旧賃借人が「老舗」を売却する機会を失ったとして賃貸人に対して不法行為に基づいて損害賠償請求をしたという事案でした。
大審院は、「第七百九条ハ、故意又ハ過失ニ因リテ法規違反ノ行為ニ出テ以テ他人ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任スト云フカ如キ広汎ナル意味ニ外ナラス。其侵害ノ対象ハ、或ハ夫ノ所有権、地上権、債権、無体財産権、名誉権等所謂一ノ具体権ナルコトアルヘク、或ハ此ト同一程度ノ厳密ナル意味ニ於テハ未タ目スルニ権利ヲ以テスヘカラサルモ、而モ法律上保護セラルル一ノ利益ナルコトアルヘシ、否詳シク云ハハ、吾人ノ法律観念上其侵害ニ対シ不法行為ニ基ツク救済ヲ与フルコトヲ必要トスト思惟スル一ノ利益ナルコトアルヘシ。夫権利ト云フカ如キ名辞ハ其ノ用法ノ精粗広狭固ヨリ一ナラス。各規定ノ本旨ニ鑑テ以テ之ヲ解スルニ非サルヨリハ争テカ其ノ真意ニ中ツルヲ得ムヤ。当該法条ニ『他人ノ権利』トアルノ故ヲ以テ、必スヤ之ヲ夫ノ具体的権利ノ場合ト同様ニ於ケル権利ノ義ナリト解シ、凡ソ不法行為アリト云フトキハ先ツ其ノ侵害セラレタルハ何権ナリヤノ穿鑿ニ腐心シ、吾人ノ法律観念ニ照ラシテ大局ノ上ヨリ考察スルノ用意ヲ忘レ、求メテ自ラ不法行為ノ救済ヲ局限スルカ如キハ思ワサルモ亦甚シト云フヘキナリ」と述べて、本件では、「侵害ノ対象ハ売買ノ目的物タル所有物若ハ老舗ソノモノニ非ス得ヘカリシ利益即是ナリ斯ル利益ハ吾人ノ法律観念上不法行為ニ基ツク損害賠償請求権ヲ認ムルコトニ依リテ之ヲ保護スル必要アルモノナリ原判決ハ老舗ナルモノハ権利ニ非サルヲ以テ其の性質上不法行為ニ因ル侵害ノ対象タルヲ得サルモノナリト為セシ点ニ於イテ誤マレリ」として損害賠償を認めました。
この判決は、民法七○九条の「権利」という要件を法律上保護すべき利益と解し、不法行為の成立範囲を広げ、「権利侵害から違法性へ」という不法行為法の転換期となったものと評価されています。しかし、本判決が、被告等が「法規違反ノ行為ヲ敢シ以テ原告先代カ之ヲ他ニ売却スルコトヲ不能ナラシメ其ノ得ヘカリシ利益ヲ喪失セシメタ」ときに不法行為が成立すると述べるだけであって、その場合に当然に不法行為が成立するとはしていない点や、また「侵害ノ対象ハ売買ノ目的物タル所有物若ク老舗ソノモノニ非ス得ヘカリシ利益」と述べていることの意味について、学説からは、従来、問題を提起されています。私も、大学湯大審院判決は妥当な解決を図った判決として評価し得ると考えますが、民法七○九条の「権利侵害」という要件を法律上保護すべき利益と解するからには、それなりの説得的理由付けが明確にされている必要があるにもかかわらずそれがされていないのではないかと考えています。説得的理由付けが明確にされなければ、結果は妥当なものと評価されながらも、恣意的判断であるという批判を免れないことになってしまうのではないか、と考えるからです。
2.通説における違法性論の展開(「権利侵害」から「違法性」へ)
雲右衛門レコード事件判決に見られる傾向を示しているときに、学説には、七○九条の「権利」をなるべく広く解しようとする傾向が現れてきていましたが、不法行為成立に「権利侵害」が要件となっていることを前提に、種々の利益について「権利」とみることができるかを個別に検討するにとどまっていたようです。しかし、雲右衛門事件判決に接しての反省と、大学湯事件大審院判決に触発されて、学説も自由な解釈態度へと大きな展開しました。そして、通説は、不法行為の成立要件のうち「過失」を主観的要件と位置づけるのに対し「違法性」を客観的要件(侵害結果と行為の外形的評価)と位置付けています。
三、「違法性」の判断基準
1.我妻説(相関関係説)
我妻博士は、末川博士の違法性論を受けて、その違法性の判断基準を明らかにしようとされました。
末川説(「違法性論」)を受けて、我妻博士は、不法行為制度が個人の自由活動の最小限度の制限を画する制度であるとすれば、「権利侵害」を要件とするのが合理的であるが、法律思想の趨勢に従えば不法行為制度の基礎も個人本位の思想よりも人類社会における損失の公平妥当な負担配分の思想に求められなければならず、そこにおいては「権利侵害」ではなく加害行為の「違法性」が要件となると主張され、その違法性判断の基準について以下のように述べておられる。侵害された利益が確実な権利と認められるものから、新たに認められようとするものへと段階強弱があることを考慮し、権利性の強いものへの侵害は権利性の弱いものへの侵害よりも、一般に違法性が強いものと考えなければならないし、また、我々の行動には、抽象的に見ると権利の行使と是認されるもの、自救行為として是認されるもの、自由活動の範囲として放任されるもの、公序良俗違反として排斥されるもの、法規違反として禁じられているもの等、さまざまあり、他人の利益を侵害する場合にも、その侵害行為は権利行使の場合から、法規違反の場合にまで至るから、侵害行為が権利行使の場合から法規違反の行為に至るまで次第に違法性の強度が増すことを承認しなければならないが、権利の行使がことごとく違法性がないわけではないし、法規違反の行為のことごとくが違法性があるわけではなく、違法性阻却事由の有無を考慮しなければならないと、述べられ、違法性の判断について一方では硬直な判断に陥らないよう、他方では恣意に流れないよう配慮するために、当該加害行為の被侵害利益における違法性の強弱と加害行為の態様における違法性の強弱とを相関的・総合的に考察して違法性を判断すべきであるとされている。
すなわち、我妻博士は、被侵害利益の種類・程度と侵害行為の態様を比較考慮して相関的に違法性を判断すべきであるとされいるのです。すなわち、@被侵害利益が強固ないし侵害の程度が重大な場合には、侵害行為の不法性が小さくとも、加害行為に違法性が認められ、A侵害の不法性が大きければ、被侵害利益の程度が小さくても、違法性が認められると考えられるわけです。
(1) 被侵害利益
@法益として強固なもの
これは、侵害されれば原則違法と評価される法益であって、所有権をはじめとする物権、生命・身体・健康・自由などの権利が挙げられる。そのほか著作権・特許権・実用新案特権・意匠権・商標権などもそれに数えられるでしょう。
A被害の程度が考慮されるもの
債権、営業権、生活妨害、名誉・肖像・氏名、精神的自由等が挙げられます。これらの侵害利益は、侵害を受けてもその侵害行為の態様を考慮しなければ、違法性を判断できないものです。排他性の弱い債権や営業権の場合には、侵害されたとしても、そこには自由競争の原理が働くことから通常の行為は違法性がないと言わざるを得ないことから、第三者が債権者等を害する意図で行った権利侵害行為か否か、不正な手段を弄したか否かや、自由競争の信義に反する行為であったか否か等、その侵害行為の態様を考慮しなければなりません。
インターネット上でも問題となるきわめて現代的な問題である名誉権侵害、プライバシー権の侵害について少し詳述します。
(a) 名誉権侵害に関しては、とくに民法723条に原状回復が規定されています。ただ、損害賠償を命ずる場合も多いようです。名誉の定義についてですが、(1)人の品性・徳行・名声・信用等の人格的人格的価値についての社会的評価と、(2)自己の人格的価値についての主観的な名誉感情とがありますが、最高裁は、民法723条の名誉回復処分を命ずるには、(2)だけでは足りず(1)の客観的な社会的名誉が毀損されなければならないとしています(最判昭和45年12月18日)。学説や近時の下級審裁判例には、損害賠償(慰謝料)を認めるには、「名誉感情」だけで足りるとする見解が多いようです(五十嵐清「人格権論」14頁)。そして、毀損されたか否かは、当該人の社会的地位、状況などに照らして個別的に判断されています(沢井裕「テキストブック事務管理・不当利得・不法行為」〔第2版〕140頁)。問題は、マス・メディアによる毀損の場合には、報道の自由、「知る権利」との関係で特別な配慮が必要と考えられます。違法性阻却事由として、判例(最判昭和41年6月23日)は、不法行為法においても、刑法230条の2の趣旨は妥当するとしています。また、「公正な評論」にあたる事実が主要部分において真実であること、論評の目的と対象が公益性に置かれることが必要と解されている(平井宜雄「債権各論U」50頁)。名誉毀損の効果としては、損害賠償のほかに、これに代えて、またはこれとともに新聞・雑誌などへの謝罪広告掲載を命じうることになります。
(b) プライバシー権侵害についてですが、ここにいうプライバシーとは、私事を公開されないという法的保障ないし権利とされています(「宴のあと」事件)。ところで、ここに言う私生活の公開とは、公開された内容が必ずしもすべて真実である必要はなく、公開された内容が、一般の人にとって、当該私人の私生活であると誤信しても不合理でない程度に真実らしく受け取られるものであれば、それはプライバシーの侵害となり、故意または過失があれば不法行為が成立しています(「宴のあと」事件判決)。プライバシー侵害の不法行為の成否は、この違法性判断にかかっているといえます(新・判例コンメンタール「不法行為」23頁)。このプライバシー権に対する侵害は、世間の評価に悪い影響を与えない場合にも成立すると解されていますし、真実を公表した場合にも違法であるとされる点で、名誉毀損の場合と事情を異にしています。高知地判平成4年3月10日は、同和地区出身者であることその他の暴露はプライバシー侵害であるが名誉毀損には当たらないとするものがありますが、表現・報道の自由との関連を生じることで名誉毀損と共通し、また、同じ行為が名誉毀損とプライバシー侵害に当たることも多いようです。
(2) 加害行為の態様
@刑罰法規違反
加害行為が刑罰法規に違反するとき最も悪質であることから違法となる、と我妻博士はされている。したがって、刑罰法規違反による違法性と民事違法とは質的に異なる、と考えられる。この民事違法と刑事違法の質的違いについては、筆者に論文の発表の機会が与えられれば、その折りに詳しく論証する用意があります。
A保護法規違反
取締法規が私人の利益を保護することを目的としている場合に、この法規に違反する行為は被害をもたらしている限り、違法と判断される。
B公序良俗違反
特定の法規に違反しなくとも、公序良俗に反すると考えられる行為による侵害は違法と判断される。
2.我妻栄説批判
以上のような我妻説の違法性判断方法に批判があります。
第一の批判は、この我妻説が加藤一郎博士に引き継がれ「現在の学説の到達点」とまで評され、長年通説の地位に立っているわけですが、加藤博士の相関関係説の特徴をあげますと、「被侵害利益が強固なものであれば、侵害行為の不法性が小さくても、加害に違法性があることになるが、被侵害利益があまり強固なものではない場合には、侵害行為の不法性が大きくなければ、加害に違法性がないことになる」とする点にあります。
もう少し詳しく言えば、加藤説は、我妻説を完全に読み換え、被侵害利益が強固なものでない場合には、侵害行為の不法性の程度によっては、損害賠償責任の成立要件である違法性がゼロになることを認めてしまい、我妻説の主張する権利侵害は違法阻却事由のない限り原則違法であるという立場から逸脱してしまったのです。さらに、問題なのは、この加藤説における「相関関係説」を背景に、公害裁判における違法性の判断基準としての「受忍限度論」が登場してきたことです。
「受忍限度」という概念は、通常の合理人ならば社会共同生活を営む上で当然甘受するであろう限度という意味において、すなわち、お互いに迷惑をかける可能性があるのであるから、ある程度のことは我慢しようという意味において、相隣関係のように対等な私人相互の間の利益の調整が問題となる領域、言い換えれば、市民法的な地位の交替可能性ないし「互換性」のある分野においては、たしかに妥当するものであり、また「受忍限度」の判断枠組みである利益衡量論そのものは優れた理論であると考えられます。ところが、公害企業と周辺住民との間には、対等な関係はそもそも存在し得ず、したがって立場の交代可能性ないし「互換性」がないから、立場に交代可能性のある相隣関係における私人相互の利益調整の道具である「受忍限度」が妥当し得ないはずであるにもかかわらず、公害企業と周辺住民である私人とを対等な関係にあるものと擬制して、この「受忍限度論」を用いたために、「受忍限度論」は、加害者側の加害行為の態様が特に不法性の高いものでない限り、受忍限度内であるとして違法性を否定するという機能を果たすこととなってしまったのです。
公害事件における違法性の判断、すなわち、受忍限度判断の際に、(a)被害者側の事情として@被害の種類・程度、A被侵害利益の公共性・社会的価値、B被害者に対する被害回避 期待可能性、C被害者の過失が、また(b)加害者側の事情としてはD加害行為の態様、E加害行為の公共性・社会的価値、F加害者に対する防止措置の期待不可能性、G法令・条例等公法上の基準、H改善勧告等の行政処分が、(c)被害者・加害者双方の事情としてはI先住性、J地域性が、それぞれファクターとして、相関関係説によって整理されるに至ったと評価されています。
このことによって、受忍限度判断のために考慮する要素のすべてが相対的ウエイトしかもちえず、生命・身体という不可侵の「権利」までもが判断の一要素としての意味しかもち得ないことになり、加害者側の行為態様などと同じ次元で衡量されることになってしまったことから、権利侵害は違法であるという我妻説の相関関係説の原則が崩れることになってしまったのです。受忍限度論は、判断基準を曖昧にし、「裁判官に白紙委任するという本質を有している」(大阪弁護士会環境研究会「環境権」前掲一四〇頁)との批判や、「裁判官に対して企業保護的配慮を為すべきことを指導し、その配慮を忘れた裁判官に対して批判者的役割を演じることになる。」(大阪弁護士会環境研究会「環境権」一四〇・一四一頁)との批判を受けることとなった。
第二の批判は、通説(我妻・加藤説)は、@「違法性と故意、過失を峻別しながら、違法性の内容として刑罰法規違反をあげるが、刑罰法規違反は故意、過失による行為なのである」から、「違法性のもとに故意、過失を問題にして…」おり論理的矛盾があるという批判や、A「『刑罰法規違反』とは、刑法上の構成要件を充足する行為なのであるから原則として『故意』による不法行為と考えなければならず、…いわゆる『違法性』とは主観的要件たる『故意』のことではないかという問題が生じてくる」から、通説が「…『刑罰法規違反』を『違法性』の決定基準と考えている」ことと「『故意・過失』との関係はどうなるのであろうか」という批判である。
この相関関係説に対する理論的批判は、ある意味では確かにその通りであり、またある意味では何ら批判に当たらないと考えられる。その点についても論文の発表の機会が与えられれば論証の用意はできている。
3.相関関係説擁護説
以上の相関関係説に対する批判に対し、阿波連正一助教授は、沖縄法学十三号「我妻相関関係理論の歴史的構造」において、相関関係説を検討し相関関係説への批判の不当なことを論証されている。そのうえで、我妻相関関係説を再構成されて、「我妻相関関係説における刑罰法規違反は構成要件該当性の次元に位置づけるのが妥当」(阿波連「我妻相関関係理論の歴史的構造」二四一頁)であるとされ、「このように刑罰法規違反を犯罪としてではなく構成要件として把握することにより、故意・過失と区別される」(阿波連「我妻相関関係理論の歴史的構造」二四一頁)と述べておられる。
たしかに、そのように解することができれば、我妻栄相関関係説に対する批判に答える優れた見解であると思われる。しかし、私は、以下の点から疑問を提起したい。
阿波連助教授の言われる「構成要件該当性」とは、「刑罰法規違反を犯罪としてではなく構成要件として把握することにより、故意・過失と区別される」と述べられている点から考えて、四宮説における成立要件という意味合いでの構成要件ではなく、刑法上の概念を指しておられると考えられるのであるが、ここに二つの疑問点があるのである。一つ目の疑問点は、我妻相関関係説における行為態様の一つの要素として考慮される「刑罰法規違反」を「構成要件該当性」と把握することにより、はたして民事上の客観的要件といわれている「違法性」要件から主観的要件と言われている刑事上の「故意・過失」という概念を完全に分離できるのであろうかという疑問、すなわち、主観的要素と呼ばれる「構成要件的故意・過失」という概念をも完全に排除できるのであろうかという疑問点である。
二つ目の疑問点は、客観的違法性説・結果無価値論を採用する立場においては、たしかに主観的違法要素としての「故意・過失」を理論的には排除することができるが、刑法理論の状況においても主観的構成要件要素を考慮せざるを得ない状況があることから考えると、客観的違法性論・結果無価値論を採用すると何故に主観的構成要件要素である「構成要件的故意・過失」を構成要件から排除できるのかという疑問である。
たしかに、刑法上の「構成要件」という概念は、人権保障機能と結び付いて、処罰される行為と処罰されない行為を明確に限界付けるという罪刑法定主義的機能を果たしており、このような機能を果たすためには、構成要件が認識の比較的容易な客観的要素および記述的要素から形成されなければならないことは一般に言われていることである。この点、構成要件を責任はもとより違法性からも截然と分離し、これを形式的、価値中立的にもっぱら行為の類型と解する「行為類型」論は、構成要件のもつ保障機能を最も強く意識した構成要件論であり、構成要件から違法・責任要素を極力排除しようとする立場であるが、この行為類型論であっても、構成要件による犯罪の個別化機能、たとえば、殺人の構成要件は、主観的要素によって傷害致死や過失致死の構成要件からも区別される機能を認めざるを得なくなってきている。また、構成要件から違法・責任を極力排除しようとする行為類型論においても、殺人罪の故意を認めるためには、「人を殺す」という構成要件に該当する事実を認識している必要があることから、通説のように、主観的構成要件的要素としての「構成要件的故意」という概念を認めることが可能であり、過失を不注意によって「客観的構成要件に該当する事実を認識しないこと」と解するとき、同様に「構成要件的過失」概念も認めることが可能となってくる。このように見てくると、構成要件から違法・責任要素を極力排除し、形式的・価値中立的な行為の類型と解する「行為類型論」にあっても、構成要件の個別化機能を機能させるためには、主観的要素を取り込まざるを得ないこと認めている。
このことを考えると、客観的で記述的・没価値的な構成要件と考えられていた構成要件も主観的要素としての故意・過失、すなわち、「構成要件的故意・過失」とは無関係ではないということになってくるのではなかろうか。構成要件を記述的・没価値的なものとして把握するという前提に立って相関関係説における行為の態様に対する再構成を試みられるのはよいが、その前提となるところの「主観的要素は構成要件該当性の判断のレベルでは考慮しない」ということの論証が必要なのではないだろうか。構成要件を記述的・没価値的なものであると把握しつつも構成要件に主観的要素を認めざるをえなくなってきていることと、実務に定着しているといわれている構成要件概念を前提とすれば、殺人罪と過失致死罪が同一の構成要件ということはできないはずであるが、このことをどのように説明されるのであろうか。
さらに、阿波連助教授は、「違法行為類型としての構成要件に該当する事実が故意・過失の内容である予見(可能性)の対象となり、それゆえに違法行為を回避すべきであったのにそれをしなかったということに損害賠償的非難可能性すなわち責任の根拠が求められる」とされるが、構成要件に該当する事実を予見の対象とされる点で、予見の対象が何であるかが具体的に分かるように思われるかもしれないが、構成要件に該当する事実のみを予見の対象とするならば、救済しえない不法行為類型が考えられるように思われるのである。一つ例をあげるとすると、NTTの五〇度数のテレホンカードの度数が通話可能な一九九八度数に不正に改竄され第三者に売り渡されていたという事件が最高裁まで争われた。有価証券とは、「証券に財産上の権利が表示され、その権利の行使にその証券の占有が必要とされるもの」を言うとされているが、その事件での争点は、テレホンカードが刑法上の有価証券か否か、テレホンカードの磁気情報部分に記録された通話可能度数を権限なく改竄する行為が「変造」にあたるか、そして、変造されたテレホンカードをカード式公衆電話に挿入して使用することが「行使」にあたるかということであった。結果から言えば、最高裁の決定は、従来の有価証券概念を維持しつつ、テレホンカードの特殊性にも配慮した解釈論を展開し、「テレホンカードは、有価証券に当たる」と判断したわけであるが、学説からは、テレホンカードは、通貨に「限りなく近い」だけで通貨そのものではなく、磁気部分の改竄ならば、一六一条ノ二の「電磁気的記録」には当たるが、有価証券の「変造」は否定されるべきであるとか、有価証券偽造罪の保護法益には、有価証券に対する現実の「人の信用」が含まれなければならず、およそ人の判断を誤らせる危険のない物は処罰の対象とするまでもないのではないか、という疑問が提起されている。この事件からも分かるように、構成要件該当性とひとことで言っても、その構成要件を解釈してはじめて、当該犯罪を構成する事実か否か、構成要件的結果の発生か否かが確定するのであって、構成要件該当性を予見の対象とするのでは、救済を受けられる者の範囲が狭まってしまうのではないかという疑問が残るのである。仮に、本件で刑事責任が認められなくとも、NTTとしては、テレホンカードの度数の改竄によって得られるはずの利益を得られなかったのであるから、不利益(損害)を被っており、刑事責任が成立しない場合、あるいは確定しない場合であっても、不法行為責任を認められなければならない事例であろうと考えられるのである。このような新たな事件類型においては、構成要件該当性を予見の対象としても、それは何の役にも立たないことにならないであろうか。
【参考判決例】
反対政党に属する者に選挙に際し選挙対策委員委嘱状と称する文書が送付されたため、謝罪文の交付を請求した事案
「民法7123条にいう名誉とは、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的名誉をさすものであって、人が自己自身の人格的価値について有する主観的な評価、すなわち名誉感情は含まないものと解するのが相当である。けだし、同条が、名誉を毀損された被害者の救済処分として、損害の賠償のほかに、それに代えまたはそれとともに、原状回復処分を命じうることを規定している趣旨は、その処分により、加害者に対して制裁を加えたり、また、加害者に謝罪等をさせることにより被害者に主観的な満足を与えたりするためではなく、金銭による損害賠償のみでは填補されえない、毀損された被害者の人格的価値に対する社会的、客観的な評価自体を回復することを可能ならしめるためであると解すべきであり、したがって、このような原状回復をもって救済するに適するのは、人の社会的名誉が毀損された場合であり、かつ、その場合にかぎられると解するのが相当であるからである。」
「民事上の不法行為たる名誉毀損については、その行為が公共の利害に関する事実に係りもっぱら公益を図る目的に出た場合には摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為に違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについての相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(このことは、刑法230条の2の規定の趣旨からも十分窺うことができる)。…」

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Revised: 2002/12/01
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