「因果関係」論
最終更新日時:2004/08/17 08:33
便宜上、重要箇所については「赤字」で、更新部分については、「青字」にて表記します。
一、因果関係論の問題の所在
Y(加害者)に不法行為責任を問いうるためには、Yの行為(加害者の行為)によって、X(被害者)に現実に損害が発生したことを要する。なぜならば、不法行為責任とは、被害者に生じた損害を加害者に填補させることを目的とする制度であるから、たといYの故意・過失によってXの権利が侵害されたとしても、Xに現実の損害が発生していない以上、Yの不法行為責任が発生する余地がないからである。被害者Xによる損害賠償請求が認められるためには(言いかえれば、加害者に対し被害者に生じた損害の責任を問いうるためには)、損害の発生に加えて、発生した損害が加害者Yの行為を原因として発生したものでなければならない。この加害行為と損害発生との関係を従来、漠然と「因果関係」と呼んできた。学説も、民法709条の「故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス」という規定のうち、第一の「ニ因リテ」を@「成立要件としての因果関係」と呼び、第二の「ニ因リテ」をA「賠償範囲の因果関係」と呼んで「因果関係」には二つの側面があることを認めてきた(加藤一郎「不法行為」〔増補版〕152頁)。こうした理解に立ちながらも、従来、この二つの因果関係は、現実には密接に関連するとして、通説は、不法行為に416条の準用ないし類推を認め、同条が相当因果関係を定める規定であると解する結果、不法行為における因果関係もまた同様に相当因果関係を指す、というのがほぼ一致した見解であった。
ところが、この「相当因果関係」という概念は、元来、完全賠償主義を原則とするドイツ損害賠償法において、損害賠償の範囲を制限するために、しかも、(第一次)損害(たとえば、他人の右手を過失で切断したため、その他人が仕事をしえなくなった損害)ではなく、間接(後続)損害(たとえば、右の他人が病院に行く途中で交通事故にあって死亡したことによる損害)をどこまで制限するかという問題の解決のために主張されたものである。そして、どのようなときに「相当」といえるのかというと、「一定の結果と条件関係にある加害行為が、同種の結果の発生を一般に助成する事情であるとき、すなわち、同種の結果発生の客観的可能性を一般的に少なからず高めるとき、その加害行為は、その結果の相当な条件である」というのである。そして、日本法学は、この概念を継受して債務不履行の損害賠償の範囲を定める民法四一六条が、そのことを定めた規定であるとし、この民法416条を、不法行為の損害賠償の範囲決定に(類推)適用した。この主張は、富喜丸事件以来、判例理論ともなっている(平井宜雄「損害賠償法の理論」、前田達明「民法Y2」不法行為125頁以下)。
しかし、このような判例・通説の立場に対して、有力な反対説が現れた。その先鞭をつけたのが平井説であった。平井説は、完全賠償主義を根幹とするドイツ損害賠償法の構造は、制限賠償原理に立つ日本民法416条と構造的に異なることを指摘し、したがって損害賠償範囲の画定の手段として用いられている相当因果関係という概念は、日本民法の解釈においては不要であることを主張され、これまで、判例・通説が「相当因果関係」という概念によって扱ってきたのは、次の三つのことであり、それを明確に区別すべきであるとして、日本民法の新たなる分析道具概念として、@「事実的因果関係」(cause in fact)、A「保護範囲」、B「損害の金銭的評価」の三つの概念を提唱されている(平井宜雄「損害賠償法の理論」)。すなわち、@の「事実的因果関係」は、まさに「因果関係」があるかないかという科学的・社会的な判断(ある意味で法以前の判断であり、純粋に事実的・自然的・機械的・没価値的に事物生起の過程を観察したときに認められる自然科学的因果関係)であり、その判断基準は、but for test公式(あれなければこれなし)により発見され、Aの「保護範囲」は、どこまでの損害を加害者に負担させるべきかという法的な価値判断の問題(無限に連鎖する事実的因果関係を絞り込む判断)であり、Bの「損害の金銭的評価」は、金銭賠償原則を採用する(わが国などの)損害賠償法に特有な作業であることを指摘したのである。
このようなことを自覚して区別し議論することは、複雑な不法行為法の理解を容易にすることであって、採用されるべき区別であると考えられる(前田達明「民法Y2」不法行為126頁)として一般に支持されている。たしかに、「因果関係」という概念を@「事実的因果関係」(cause in fact)、A「保護範囲」とに分解、区別したことはすぐた見解だと考えているが、Bの「損害の金銭的評価」という概念は、はたして因果関係の問題といえるか筆者は疑問に思っている。
しかし、この平井説は、因果関係論に大きな問題を投げかけた。すなわち、四大公害訴訟裁判(イタイイタイ病訴訟、熊本水俣病訴訟、新潟水俣病訴訟、四日市公害訴訟)を通じて、まさに、この@の「事実的因果関係」が意識され、この「事実的因果関係」(cause in fact)の存否が争点となったのである。この「事実的因果関係」の存否は、自然科学上の因果関係であることから、100パーセント完全に証明される必要があるとされたからである。この事実的因果関係の証明を原告に負担させるとすると、科学的・医学的知識、費用の乏しい原告に多大な負担を課すことになり、常に原告側は敗訴することになるのである。公害は、大気・水などの媒体を通じて汚染物質が環境中に放出され、その汚染物質が大気・水で希釈されて被害者に到達し、長期間被害者が曝露されることによって人体に影響がでることが多いため、@「被告工場の排出する有害物質がどのような経路で被害者に到達し」、A「汚染物質がどのようなメカニズムで人体に影響を与え疾病が発生したか」、そしてそもそもB「その汚染物質が病気の原因であるか」ということを、原告が完全に証明することは著しく困難なのである。現代風に言えば、ダイオキシンによる曝露により健康被害が起こるがごとくである。不法行為法が損害の公平な配分であるならば、このような事態を是正しなければならないはずですから、はたして「事実的因果関係」なるものが、一般に言われるように何らの価値判断も入らない事実的・自然的・機械的・没価値的なものなのかを、英米法なども視野に入れて目的的に考察していきたいと考えている。
1.事実的因果関係の意義
ここでいう「事実的因果関係」とは、まさに「因果関係」があるかないかという科学的・社会的な判断、すなわち、純粋に事実的・自然的・機械的・没価値的に事物生起の過程を観察したときに認められる自然科学的因果関係であると一般にいわれる。そして、その存否は、「but for test公式」(あれなければこれなし)という判断基準により発見される。ただし、留意しておかなければならないことは、この「but for test公式」は、われわれ人間が蓄積してきた経験則から導き出されている公式であることである。すなわち、われわれ人間の経験則の働かない事例において、果たしてこの公式が因果関係の発見に有効なのかを考えておかなければならないと思うのである。Aの加害行為がなければ、Bの損害も発生しなかったという関係(「あれなければこれなし」の関係=条件関係)が認められるか否かで判断されるのである。したがって、「事実的因果関係」の存否は、加害者に損害賠償責任を負わせてよいか否か(帰責性)の判断である法的因果関係(平井説によれば「保護範囲」)の前提となる。ただ、注意を要するのは、先にも指摘したように、この「事実的因果関係」を純粋に自然科学的な意味での因果関係と同視してよいかが問題となる。なぜならば、もし、この「事実的因果関係」を純粋に自然科学上の因果関係であるとすると、その「事実的因果関係」の立証は困難を極めることになるからである。例えば、過去の公害を例にとると、公害の原因物質である汚染物質は、大気・水などを媒体に環境中に放出され、長期間・低濃度の曝露(=曝される)によって、人体に影響を及ぼすことから、被告工場の排出する汚染物質によって当該疾病(公害病)が発生したということを原告側が立証することが極めて困難なのである。すなわち、@発生した疾病の原因物質が何か、そして、その原因物質が何かが解明できたとして、A原因物質がどのようにして原告に到達したのか(到達経路)、特に、大気・水などを媒体として原因物質が拡散・希釈されるような場合には、その汚染原因をつきとめることは困難であり、また、B疾病の発生機序は不明であることが多く、汚染物質と疾病との間の因果関係を立証することは困難を極めるのである。このように、事実的因果関係を法的評価と切り離した事実の問題、すなわち、法的因果関係の不可欠の前提としての「事実としての因果関係(=自然科学上の因果関係)」とすると、事実的因果関係は科学的証明の対象ということになり、その事実的因果関係の存否の証明の程度は、科学的証明の程度(100l)を要求されることになりかねないのである。事実被告企業側は、それを主張してきたのである。
賀集 唱が東京高等裁判所判事である当時に、「訴訟上の証明の対象としての因果関係は、事実的因果関係である。自然的因果関係ともいう。『自然的』と冠しているところからも連想されるように、自然科学が解明しようとする因果関係と同じものを対象としている。…訴訟上の対象としての因果関係が科学的証明の対象と同一である以上、判決における理由説示も、『科学はこうである』というのが最も説得力を持つ」(賀集 唱「損害賠償における因果関係の証明」講座・民事訴訟D証拠202頁、同旨として前田達明「判例不法行為法」43頁、44頁)と述べているが、はたしてそうなのであろうか。
プロッサーは、事実的因果関係について、「被告の行為が原告の侵害を惹起したのかは事実の問題である。…それは、いかなる素人でも、最も経験のある裁判所とまったく同等に裁判できる事柄である。だから、通常の事例においては、それは、特に陪審の判断事項である。因果関係は事実である。それは、実際に何が起こったかの問題である。」(William.L.Prosser.The Law of Torts. Fourth Edition.237)としている。
たしかに、陪審制を採用する国においては、法律の素人である陪審であっても容易に因果関係を判断できるようにするために、事件を陪審に付託するまでに、裁判官が純粋に事実的な次元にまでふるいにかける必要があるため、このように言われているのだと推測する。しかし、陪審制を採用する国においても、「陪審は、『事実問題』の判定者として、…限定された役割をもつ裁判官とは別の立場で事実的因果関係の問題を扱うのであり、その際に陪審が価値評価を介入させ」ている(望月礼二郎「ネグリジェンスの構造」法学37巻2号26頁以下)と考えられることから、事実的因果関係は、事実的・自然的・没価値的なものではなく、事実関係についての法的価値判断に関わるものである、と考えるべきである。
なお、この因果関係の判定をめぐっては、その探求の目的が異なれば、おのずと因果関係の判断も異なりうるということを忘れてはならないと私は考えている。どういうことかというと、結果に対する原因は必ずしも一つとは限らないのである。突風が吹いて鉄橋から列車が落ちる場合を考えると、列車が鉄橋から落ちる原因には、様々ある。列車が鉄橋を渡っていたことも原因であるし、重力があることも原因であるし、突風が吹いたことも原因であるし、そんな突風の吹くような天候状態で漫然と列車を通過させたことも原因であろう。自然科学的に因果関係を探求するならば、原因は、重力があること乃至突風が吹いたことに求められるであろうし、法律家ならば、突風が吹くような天候状態で安全も確認せずに漫然と列車を通過させたことに原因を求めるであろう。また、塵肺を例にとると、塵肺の原因にも少なくとも二つ考えられるのである。一つは、塵肺の病理学的原因である粉塵であり、いま一つは、そのような粉塵に曝露され続けたことである。因果関係の探求の目的が、医学的目的なのか、それとも法律学的目的なのかによって、その探求方法が異なるのである。医師の因果関係探求の目的は、粉塵と塵肺との間の因果関係、すなわち、原因物質と考えられる物質と肉体の病理学上の状態を刺激する物理的条件に集中するが、裁判所(法律家)は、なぜ病気の原因と考えられる物質に曝露されることになったかという違法行為(例えば、労働者が石炭の粉塵に曝露されることを防止することの使用者の怠り)があるかどうかを発見しようとして事件を過去に遡って調べるのである(A.M.Honore.Causation and Remoteness of Damage 〔International Encyclopedia of Comparative Law.vol ]T.Torts.26〕)。すなわち、われわれは、多くの原因の中から、探求の目的に従って原因を取捨選択するという価値判断をしているのである。無限に連鎖する事実的因果関係の中から、法律学の目的に応じて、すなわち、誰に損害賠償責任を負わせるかという「法的価値判断」を加えて、事実的因果関係に「しぼり」をかけるのが、法律学における「事実的因果関係」であると私は考えるのである(詳しくは、拙稿・「早稲田大学大学院法学研究科平成2年(元年度)修士論文『損害賠償請求における因果関係−公害訴訟における因果関係を中心として−』 」57頁〜72頁)。
工事中につきご迷惑をおかけしてます
作成者情報
Copyright
© 1998/01/27 [早稲田の杜]. All rights reserved.
Revised: 2002/12/01
.