「環境権の法理」                         

最終更新日:2004/08/17 08:33

 2004/08/17 08:33の加筆・訂正箇所につきましては、便宜上、「青字」で表記します。重要個所につきましては「太体」で表記します。

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一、環境権の法的構成

1.環境権の提唱

 一九六〇年代後半に、環境に関する市民の権利として、環境権が、アメリカミシガン大学のサックス教授によって提唱されました。サックス教授は、環境権を市民が快適な環境を享受できる権利として位置づけるだけではなく、環境破壊のおそれがある場合には、原因者に対して予防訴訟を提起できる法的根拠としての位置づけを与えるべきだとして環境権を提唱したと評価されています。ミシガン州環境政策法は、この考えに沿って定められたといわれています。その後、健康で安全に生きることがわれわれ人間にとって基本的な権利であることが、ストックホルムでの国連環境会議での宣言として採択され、全世界的にも承認されています。

 日本においては、一九七〇年九月に、日本弁護士連合会第一三回人権擁護大会で、大阪弁護士会が「環境権を提唱しました。ここで提唱された「環境権」は、何人も憲法二五条に基づいて良い環境を享受し、環境を汚すものを排除できる基本的な権利があるとするものでした。大阪弁護士会の提唱する環境権は、当時公害や環境破壊に苦しんでいる国民に向かってその被害を食い止め、より良い環境を享受する可能性を与える権利として提唱されました。その後、この新しい権利である良好な環境を享受する権利としての環境権は、憲法二五条の生存権や憲法一三条の幸福追求権に法的根拠を求め、学説上、人権の一つとして承認されています。ところが、この「環境権」を根拠に差止訴訟を起こしても、裁判所からは、なかなか「環境権」という権利そのものが認められていないというのが現状です。その代表的な事件として「大阪国際空港騒音訴訟」(「大阪国際空港夜間飛行近視等請求事件」)が挙げられます。この事件は、大阪国際空港周辺に居住する住民三〇二名が原告となり、本件空港を設置・管理する国を相手取り、@人格権・環境権に基づいて夜間九時から翌朝午前七時まで一切の航空機の発着に使用させないこと、A民法七○九条、国家賠償法二条一項により過去の損害賠償、すなわち、提訴までの非財産的損害の内金として一人五○万円を、そしてB将来の損害賠償として騒音が原告住民らの居住する居住地域で六五ホン以下になるまで毎月一人一万円の支払いを請求した事件です。第一審の大阪地裁(大阪地判昭和四九年二月二七日)は、@ABにつき、ほぼ原告らの主張を認めたが、差止の法的構成として原告らが人格権・環境権を、賠償については民法七○九条または国家賠償法二条一項を根拠として提訴したのに対し、第一審は、人格権と国家賠償法一条一項の公権力による賠償規定を適用したうえで、@の夜間飛行禁止の差止請求については午後一〇時から翌朝午前七時までの飛行機の発着禁止を命じ、Aの過去の損害賠償請求については、五○万円、三○万円、二○万円、一○万円の四ランクに賠償額を分け、Bの将来の請求については却下しました。これを不服とした原告らは、差止請求については人格権を法的根拠に、損害賠償請求については営造物の設置または管理の瑕疵により損害が生じた場合に損害賠償を認める国家賠償二条一項を法的根拠に、控訴しました。これに対し、第二審(大阪高判昭和五〇年一一月二七日)は、原告らの主張をほぼ認め、@の夜間飛行禁止の差止請求については請求通り、午後九時から翌朝七時までの飛行機の発着禁止を命じ、Aの過去の損害賠償請求については、一人一か月当たり一万円、八〇〇〇円、三〇〇〇円の三ランクを認容し、Bの将来の請求についても、原告・被告(国)間で運行規制についての合意が成立するまで一人一か月当たり六〇〇〇円の賠償を認容しました。その後、国は、第二審を不服として上告し、最高裁が破棄自判したのが大阪国際空港訴訟判決(最高裁大法廷昭和五六年一二月一六日判決)です。本件訴訟に限らず、その後の公害訴訟・環境訴訟においても、裁判所は、残念ながら「環境権」を認めることに消極的なのが現実です。しかも、現実に生じた過去の損害については認めながらも、将来にわたって継続するであろう侵害行為による将来の損害賠償や差止請求については認めないというのが裁判所の採る基本的な姿勢です。損害賠償・差止請求の根拠として「人格権」は認めるが、「環境権」については認めえないとするならば、被害者の生命・身体に対する侵害が生ずる以前には侵害を差し止めることは認められず、したがって被害者は、現に生命・身体に対する侵害が生じてから初めて差止請求をなししうるということになりかねません。これは、常に不可逆的な(とり返しのつかない)侵害が生じてからしか法的救済を求められないことになってしまいます。言い換えると、死んでから、あるいは、健康を害してから法的救済を求めて裁判所にやって来なさいということになりかねないのです。

 なお、人格権について言及するならば、大阪国際空港騒音訴訟第一審・控訴審判決は、いずれも正面から人格権による差止を認めましたが、利益衡量については、差異があるようです。第一審判決では、違法性判断に利益衡量は不可欠として、その受忍限度判断(違法性判断)の要素として@侵害行為の態様と程度、A被侵害利益の性質と内容、B侵害行為の公共性の有無、C被害防止のための対策の内容、の四点が主要なものであるとしていますが、このように判断要素のに軽重(優先順位)をつけずに、本来権利であるものまでをも相対化して羅列し、これらを総合的に評価して結論を出すべきだとしていることから、これでは実質的に人格権を認めたことにならないのではないかという批判があります。これに対し、控訴審判決は、「個人の生命・身体の安全、精神的自由は、人間の存在に最も基本的なことがらであって、法律上絶対に保護されるべきものであることは疑いなく、…」として、絶対的保護法益性を前提とした人格権論を展開している点で、評価に値します。どのように評価に値するかといいますと、「人格権」を絶対権として認知したにとどまらず、利益衡量を排除するという意味をもっているからです(沢井裕「公害差止の法理」一六頁参照)。

 

2.環境権の性質

 大阪弁護士会は、環境権の性質を、憲法上の権利であるとともに、直接差止請求の根拠となる私法上の権利として構成していることは前述しました。

  しかし、この大阪弁護士会の提唱する「環境権」については、環境権を直接私法上の権利として構成することには無理があるという見解も多いのも事実です。

なぜならば、憲法は国家の根本的な組織・作用を定める法規範であり、国民の自由を保障するために国家機関の権能に制限を加えるという制限的規範であることから、国家に対して一定の行為(作為)を禁止するという形で現れるのが憲法の本質的特徴であり、したがって、憲法上、「環境権」という権利が認められたとしても、憲法は、本来、企業と地域住民という対等な関係にある私人間の紛争を視野に入れておらず、憲法を直接私人間の紛争に適用しにくいという事情があるからです。

 もっとも、企業と地域住民が対等な関係に置かれた当事者である、と本当に言い得るのかということを検討をしなければなりません。

 憲法の保障する人権は、基本的には、対国家(=対公権力)との関係における国民の権利と捉えられてきましたし、現に近代憲法の誕生した当時においては、「国民」に相対立する存在は「国家」だけでしたから、憲法規範は国家機関に対する制限規範として国家に対して一定の作為または不作為を禁止すると考えることで十分だったと考えられます。しかし、国家権力に匹敵するほどの大きな力を持った私的団体(例えば、企業)の登場によりその私的団体による「人権」侵害が、国家権力による人権侵害と同等あるいはそれ以上に深刻な問題と意識されるに至っている現代において、「環境権」という権利が憲法上の権利であるという理由で、「環境権」なる権利は私法上の権利ではないから、私人間の紛争を解決するための法的根拠になりえないというのではあまりにもおかしな結論ではないかと考えるのは私だけでしょうか。

 人権というものが、人間が人間として生存していくうえで必要不可欠な権利であり、人間の尊厳の基本にかかわる権利として捉えられるならば、人権に対する侵害は、国家権力によるものであろうと、私人によるものであろうとも、その侵害という点においては差異はなく、ともに許されない侵害ということになると考えられます。国家権力による人権侵害は許されないが、私人による人権侵害は許されるというのでは、あまりにおかしな話だとは思いませんか。

 「環境権」という権利の主張も、公害などによりわれわれの生存の基盤である自然環境が危機に瀕しており、これを放置しておくならばわれわれの生存そのものが危うくなったことから、われわれ人間に被害が及ぶ以前にその被害を食い止めるという趣旨で提唱され生成してきた概念ですから、憲法上の権利としては環境権を認めることができても私人間の紛争を解決するための法的根拠になりえないという理屈はなんともおかしな話です。法律家は、とかくそのような議論をしがちです。悲しい限りです。一人一人が裁判官、弁護士、学者といった法律家を監視していかなければなりません。法律が、何のために存在するかを忘れた議論はうんざりです。

 大阪弁護士会は、「環境権」を良き環境を享受し、かつこれを支配しうる権利と定義しています。したがって、環境に対する排他的支配権としての性格が認められ、環境権侵害者に対して損害賠償請求、差止請求が可能であるとする。このような権利は、環境を深刻に破壊してきた企業活動の自由に対する制約を課題としていますから、社会権の性格を有すると解されています。他面において、社会的環境(道路・公園・公的教育施設・医療施設・電気・ガス・上下水道等)にとくに関連する側面として、国または地方自治体に対して積極的施策を求めることができる権利、すなわち、生存権的基本権としての性格も環境権に付与されている考えられるのです(もっとも、環境権を「生存権的基本権」として位置付けると、悪しき「プログラム規定説」なるものから反論が出てきますが、「環境権」を差止請求の根拠とする限りにおいては何ら「プログラム規定説」の批判は当たりません。そもそも、プログラム規定説自体、学説上批判されているところですが)。

 

3.環境権とは

 環境権に対する考え方には、以下の二通りの考え方があります。

 第一は、「健康な環境に生きる権利」(牛山積・河合研一・清水誠・平野克明「公害と人権」法律文化社)などの流れに見られる考え方で、人間の生命・健康あるいは快適な生活を確保するために、その条件である環境に対する個人の権利を承認としようとするものです。この考え方は、人間の生命・健康と環境汚染とは対応関係にあり、人間の生命・健康を保護するためには、それに対応する程度の環境を維持・回復するための請求権が承認されなければならないという発想で、人格権説と連続した考え方であり、人格的利益と環境とが密接に結びついているゆえに、環境に対して視点を拡張しているということができます(牛山積『環境破壊をめぐる法思想』(公害法の課題と理論」)九七頁)。

 第二の環境権の考え方は、大阪弁護士会環境研究会によって「反射的利益論」の克服、「受忍限度論」批判として提唱された「環境権」であり、「環境共有の法理」を中核とする個人的利益を超えた公共的利益を保護するための権利として環境権を構想するものです。

 自然の浄化能力は無限であると考えられてきましたが、この考え方は、公害・環境破壊の現実によって打ち破られてしまったのです。従来、われわれが享受できる環境利益というものは、単に事実上の利益とか反射利益などと解されてきたのですが、その環境利益なくしては、われわれ人間は生存しえなくなってきているという認識から、環境は、有限の価値物と位置づけられなくてはならなくなったのです。大気・水・土・日照・静穏などの自然環境だけではなく、自然の景観、文化遺産、社会的環境はいずれも人間が健康で文化的な生活で営むうえで必要不可欠なものである。権利という観点からみると、環境の素材は、不動産利用権に伴って利用されるべきものではなく、不動産利用権とは無関係に、万人に保障されるべき資源であり、万人の共有財産といわれなければならないのです。これを「環境共有の法理」というが、この「環境共有の法理」が環境権の中核になっています。

 わが国においても、基本的人権としての環境権は、十分に憲法上の根拠を有するものとして確立してきたようですが、人権としての環境権は、環境行政と立法に対する指導理念・解釈原理となっていますが、裁判規範としての実効性を持つ具体的な権利であるか否かについては、争いがあります。いずれも私人間の問題には、憲法上の環境権は直接適用できず、私法上の環境権の成立を促す機能があるにすぎないとしています。この意味では、第一説の環境権を健康な環境に生きる権利」(牛山積・河合研一・清水誠・平野克明「公害と人権」法律文化社)と定義する説の方が、現在の法理論上の問題点を熟知したうえでの定義と言えるのではないかと考えています。

 最近では、環境権を、憲法を起点とするのではなく、条理または慣習に基づいて民事法上の権利として存在すると理論構成する学説(中山充「環境権−環境の共同利用権(1)〜(4)」香川法学10巻2号〜13巻1号)が出てきています。この説に対しては、後に改めて検討する予定です。

 

4.環境権の権利主体

 環境権の主体は、提唱者の中には法人をもその主体に含めるとするものもありますが、主として企業活動による環境破壊に対抗し、人間の生存を保護するために、環境権が主張されるに至ったという経緯を考えに入れると、自然人に限られるべきであるとするのが支配的です(牛山積・前掲九八頁)。すなわち、環境権の主体は、われわれ国民一人一人であり、その各人が良好な環境を享受すべき権利を有すると考えるのです。その意味で、各人が環境権の主体と言うことができますが、環境というものの特性を考えるとき、環境というものは、土地や物とは異なり、各人が分割・所有することのできるものでないのですから、環境を共通に享受する範囲の市民の集合体の共同の権利ということになるでしょう富井・伊藤編「公害と環境法の展開」所収:礒野弥生「環境法の原理と環境権」八八頁)。さらには、アメリカの環境基本法にあたる国家環境政策法(National Environment Policy Act,NEPA)は、良好な環境を享受しうるのは現在の国民ばかりでなく、子孫もまた享受しうると定めていることから、環境権が基本権であるということは、人として生まれてくる限り、この権利を享受できるのは当然であるのに、それにもかかわらずこのように規定する理由は、環境が侵害されるような状態になってからでは、将来その侵害状態から回復することが困難だからです。すなわち、環境というものはいったん破壊してしまってからでは、元に戻らないもの(不可逆性)であるという認識に立っているものと考えられます。環境権は、将来の国民の環境権の擁護というものまで含まれてくるとすれば、環境と関連性を有する住民集合体や、国民の環境を保全する役割をその目的としている環境保護団体に、国民の憲法上の権利を行使をする団体としての独自の権利主体性が、従来の権利主体の範疇を超えて、環境法上承認されなければならないと考えられます(磯野弥生・前掲八八頁)。

 

二、環境権の諸原則

1.環境権共有の原則

 「環境共有の原則」は、大阪弁護士会環境権研究会が、民法の共有概念を基礎として構成したものですが、今日では、民法の「共有」概念を越えて、環境の素材とは、不動産利用権に伴って利用されるべきものではなく、不動産利用権とは無関係に、万人に平等に保障されるべき資源であり、万人の共有財産と考えなければならないとする原則として考えられています。この「環境共有の原則」は、環境に影響を与えるような通常の利用以上の環境の不平等な利用・独占的な利用の排除請求権の根拠となり、また悪化をさせるおそれのある利用についてはその環境を共有する者の事前環境影響審査請求および手続参加権を導くことになります。ただし、通常の利用以上の利用とはどのような利用なのか、そして共有物に対する適正な利用か否かを誰が決定するのかについて議論がありそうです。

 以上のことを具体的に言えば、この「環境共有の原則」から、地域住民の同意を得ないでする企業による環境の独占的支配=独占的な環境破壊は違法であり、この違法な行為に対しては、地域住民は、損害の賠償、あるいは差止を請求することができるということになるわけです。

 

2.原則

 

 

 

 

 

 

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Revised: 2002/12/01 .