さて、木々が疎らになり一面に深いササ原になると所々に赤いテープを辿りながら、山頂まで標高差約100mの急坂が続く。
ササは逆目なので両手でかき分けては上を目指すのだが、そうでなくても滑りやすいササ原に自棄になりがちな気持ちを抑えて歩を進める。
濃いガスの立ちこめたササ原では眺望が利かないのが残念なことだが、それでも点々と頭上で咲いているアケボノツツジには随分と救われる。


ササ原を漕いで山頂まで間もなく。

辺りに立ちこめるガスのせいで眺望も利かず高度感は失われがちだが、植生と頭上を渡る風の音で稜線が近いことを知らされる。
試しに腕にはめたプロトレックで標高を確かめるとすでに1550mを越えていた。そして、間もなく稜線の縦走路にぽっかりと這い出るとそこが椿山の山頂だった。
ササに覆われた縦走路の、そこだけが少し開けている程度の狭い場所に2等三角点の標石が有り、いくつかの山名板が添えられているだけのささやかな山頂だった。
山頂にある木々の芽吹きは遅く、冷たい風と厚いガスと、間近で咲くアケボノツツジだけが私たちを迎えてくれた。


椿山山頂。中央足元に三角点の標石がササに囲まれている。

生憎のガスで展望はきかないが、きっとこの方向に筒上山が、おそらくこの方向に雨ケ森がと、瞼の中で眺望を思い描いてみる。
しかし、実際にその風景を目の当たりにすれば時を忘れるだろう展望も、瞼に思い描くだけでは間が保たない。
じっとしているとまだ5月の山頂は肌寒く、三角点の標石をテーブル代わりに簡単な昼食をとった後、すぐに下山を開始した。


山頂に咲くアケボノツツジ、今年は花が少ない?

雨の中の下山とはいえ椿山の魅力溢れる自然林を早足で立ち去るには勿体なくて度々足を止めながら往路を引き返す。
およそ1時間ほどかけて尾根の分岐まで下り、ここからは往路でもふれたように分岐を左へと下った。
この道はすぐに水量豊富な谷と出会うが、ここを渡渉してからは荒れた道を辿ることになる。
そこには危険な箇所が多いので、私たちと同じコースを辿ることは絶対に避けて欲しい。


谷川に出会う。足もとには大きなイタドリが伸びて、頭上にはウノハナやツクバネウツギの花が咲いていた。

ちなみに渓谷を渡ると、かつて整備されていた木橋などは朽ちかけ、廃道寸前の道を下って行くことになる。
冷や汗をかきながら岩場を越える度に、好奇心に負けてこのルートを選択したことを後悔することしきりだった。
やがて左上に踏み跡が現れるが、この分岐ではこの左手の道を行かなければならない。
私達はそうとは知らないで、ここを真っ直ぐに下り林道の切り通しの断崖の上に出て肝を冷やした。もっとも、濃いガスの中でその場ではそうとは分からず、冷や汗を流したのは、無事に林道に下り立ってから立ち往生した崖の上を見上げてからのことだった。


椿山林道に放置された2台のトラックの間に下山した。

無事に下り立った林道の下山口からは登山口まで約200mほど、徒歩にして5分足らずでマイカーまで帰り着いた。
鬱陶しかった合羽をようやく脱ぎ捨ててタオルで顔を拭いながら運転席に滑り込むと、お疲れさんと声をかけ合った。
下山時の冒険には少々肝も冷やしたが、長い間の念願だった椿山の確認を終えて、二人の顔は充実感に溢れていた。


林の中にひっそりとシコクテンナンショウ。

さて帰途には、椿山神社に参拝し、椿山の集落にも立ち寄った。

椿山は西日本でも遅くまで焼畑(切畑)の行われていた集落で、5月頃に山を焼き、稗やソバや大豆などを耕作し、数年で地力が衰えると再び別の山を焼いては生計を営んでいた。水田を持てない山村の苦肉の策だった。
椿山集落では、近くに焼ける山が無くなると椿山山頂の南にある県境の峠「高台越え(こうだいごえ)」を越えて伊予の地まで出かけたという。
「高台を越したら、長い時にはひと月も焼山におったよ」と、おばあちゃんは庭先に座り込んで懐かしむように語ってくれた。
その頃のおばあちゃんは花盛りだったという。
それは、四国のチベットともいわれた狭隘な山肌に、丹念に石垣を築き、寄り添うように棟を連ねる椿山集落に、あちらこちらで子供たちの声が共鳴していた時代のことである。
今の椿山はといえば、子供の声どころか、「若い衆(わかいし)」は還暦を数えようとしている。

こんな辺鄙なこんなに自然の厳しい地に、椿山という集落がなぜ発生したのかを私は知らない。

かつて合戦に敗れた平家の落人が四国の脊梁山脈を辿り、椿山に居を構えたともいう。
その時、安徳帝を先導した平家一族の「滝本軸之進」が椿山の祖といわれ、集落の中央には「滝本軸之進霊社」があり、椿山神社には安徳帝や平教経、二位尼など平家ゆかりの七人が祀られている。
あるいは国王山や王人などの地名や、人々の風習などにもゆかりのものは見いだされる。
しかし、氏仏堂に保存されていたという刀剣や什器などは第2次大戦を境に散逸してしまったといい、残念ながら考証し得るものは何も残されていない。


椿山の集落。中央に見える杉の古木は「氏仏堂」のご神木。傍らには「滝本軸之進霊社」がある。

ただ、集落の歴史を見守ってきた杉の古木の元には「氏仏堂(うじぼとけどう)」があり、ここには「不開の箱(あかずのはこ)」がある。
お堂の梁が厨子を押さえていてその下にある「箱」はお堂を解体でもしない限り開けることができない。
一本角の鬼面、百足や人魚の彫り物、人面の刻まれた蟹(平家ガニ)など様々な装飾と、平家隠れ里として幾多の伝説を伝える「不開の箱」。
一説によるとその中には、百足丸という宝剣や平家の氏仏が収められてあるといわれ、平家の守本尊と伝えられる将軍地蔵がそれを護っている。

ここで、氏仏堂を建てるにおよんだ平家伝説にふれてみると、、、
安徳帝を導いて椿山に居を構えた滝本軸之進のもとに、ある日、川下から一人の僧が山の踏み分け道を登って訪ねてきた。
聞けば、さきの大雨で木椀が流れてきたのを見て驚いて登ってきたという。
隠れ里を源氏に知られてはと案じた軸之進は、この僧を斬ってしまったが、後々の祟りを恐れた人々は仏堂を建てて僧の霊を祭ったという。
僧を祭ったとされる仏堂が現在の「氏仏堂」であり、当時一緒に祭ったという百足丸は「箱」には収められず一旦親族に渡りその後行方が判らなくなったといわれる。
いったい、『箱』に閉じこめられている『もの』は何なのであろう?


氏仏堂とご神木の杉の木(左)。

あれこれと興味は尽きないが詮索はもうこれで終わりにした。
おばあちゃんの深い皺に閉じこめられたつぶらな瞳を見つめているとそんなことはどうでも良くなった。
おばあちゃんと話すたびに、豊かさは物質の嵩(かさ)ではないとつくづく思えてくる。
椿山での生活は振り米
(*2)などに見られるように確かに貧しい生活であったろうけれど、だからといって生涯がつらく悲しいものだったかといえばどうだろう?
それでは何不自由なく生きている私の方がはるかに豊かかといえばそれは疑問だらけである。
たいして広くもない「箱」の中に、便利だと思いこまされた品物を詰め込み、それで豊かかといえば心の「箱」は狭くなるばかりで。
「不開の箱」、それは長く重い歴史の上蓋に押さえられたパンドラの箱のようなものなのかもしれない。

椿山の雨はいつの間にか降り止み、山間(やまあい)からは、いたる所に水蒸気が湧き始めた。
明日は良い天気に違いない。
ゆるやかな長い歴史を超えて連綿と続く椿山の営みを、その深い皺の中にひとつひとつ刻み込んだおばあちゃんに「また来ます」と告げて、『平家の里』を後にした。

(*2)振り米=粟や稗などを主食とする山村の人々にとって米はたいへん貴重なものだった。老いて余命幾ばくもない人の枕元で「これがお米の音」だと生米を振って音を聞かせてからその米を炊いたという。椿山に限らず高知県の貧しい山村では最近までよく聞く話であった。



*全行程の私たちの所要時間(コースタイム)は以下の通り。
【往路】
登山口<22分>尾根の分岐<100分>椿山山頂
=計122分

【復路】
椿山山頂<65分>尾根の分岐<7分>谷(水場)<33分>林道下山口<4分>登山口
=計109分


備考

水は必ず用意してから歩き始めてください。

椿山集落の「氏仏堂」は「百花堂」とも呼ばれているようです。
椿山神社は大元七社権現ともいい、安徳帝や平教経、二位尼のほか、平知盛、平教盛、虎岡姫、滝本軸之進の七人が祀られています。


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