雑誌山  2001年10月20日

「雑誌」と書いて「ぞうし」と読む、このちょっと変わった名前の山は、日本山名総覧の「奇名珍名一覧」にもユニークな山名としてピックアップされているが、もともとは「雑枝」という字を充てていたのがいつの間にか「雑誌」に転じたようである。
雑誌山は一般の登山者にはあまり馴染みのない山かもしれないが、池川紙一揆逃散の道である往還の峰街道「雑誌越え予州高山通り」、中島与市郎自害の地「水の峠」、戦後の雑誌山開発計画や、南麓にある名勝「カラ池」、そして「山姥(やまんば)伝説」や「姥捨て山伝説」など、何かと話題のつきない山である。

錦秋の深山に遊ぼうと、いつもの男たち4名は早朝の池川町を目的の山に向かって車を走らせていた。
ところが、目的の山に向かう林道が崩壊により通行止めと知って、急遽向かったのがこの雑誌山だった。
急なことで事前準備(机上でのコース確認など)をしなかったことが、後々大きく響く山行きだった。
雑誌山への登山口は2箇所あるが、ここでは「水の峠」から登り、もう一つの登山口である大規模林道終点近くに下りる、長い一日を振り返ってみたい。

水の峠から雑誌山に向けて、その一部を昔歩いたことのある浜田さんを案内役に、まずは往還の街道にある「水の峠」をめざす。
水の峠へは、藩政時代に池川口番所がおかれていた池川町下土居から小郷川に沿って町道坂本1号線を進み、坂本、白髪、寄合と集落を経て「大規模林道小田池川線」に出る。
大規模林道に出ると右折して、水の峠に向かう2本の道の何れかを利用し、牧場の中を通って上方に見えるアンテナ群をめざす。
この無数のアンテナは池川町の無線家を中心に建設されたアマチュア無線の別宅シャックであり、国内有数のコンテスターの集う場所となっている。
そんなシャックのそばを通過してしばらく車を走らせると右手にDDIのアンテナが見えてきて、間もなく終点の広場に着く。
ここが標高1020mに位置する「水の峠」で、広場の下手には小さなお堂「大師堂」がひっそりと立っている。

「水の峠(みずのとう)」は、往還の松山裏街道で通称「雑誌越え予州高山通り」と呼ばれていた街道にあり、県境の黒滝峠(または地蔵峠ともいう)とならび、1000mという高所にある峠のひとつである。
この峠にはいつの頃からかお大師さんを奉る大師堂が建てられ、お大師さんの縁日には出店のほか奉納相撲や伊予万歳で夜遅くまで賑やかだったという。
そんな峠が歴史に名を刻んだひとつは「中島与市郎」の事件だった。

元治元年(1864年)11月、勤王の志士「中島与市郎」ら3名は出身地土佐市からこの水の峠を越えて脱藩を謀ったが、途中辻番所でとがめられ、仕方なく番所役人を斬り関所破りをしてしまう。追っ手から逃れるべく急ぎに急いだのが祟ったのか与市郎は水の峠あたりで足痛に苦しみ一歩も動けなくなり、仲間2人と別れて大師堂に籠もったのだが、ついに追っ手に取り囲まれ無念のうちに自刃し果てたのだった。享年23才、初冬の水の峠には間もなく雪の便りも聞かれようかという頃であった。それにしても、同じ時に脱藩した同志「中島信行(1846〜1899)」は坂本龍馬の海援隊に入り、維新後は板垣退助を助けて自由党を組織し初代衆議院議長を務めるなどの活躍をしたことや、相前後して脱藩した浜田辰弥(のちの田中光顕)は陸援隊に参加し後に宮内大臣を務めたことなどを思えば、ただただ不遇であったと思わざるを得ない。
なお、一説によれば与市郎の足痛は、脱藩を止めようとする家族によって行われた「足止めの祈祷」のせいだったとも言われている。


水の峠にある大師堂、この中で中島与一郎は自刃し果てた。現在、傍らには「殉難の地」の碑が立っている。

大師堂に手を合わせた後、いよいよ雑誌山に向かって歩き始める。

広場から数歩も歩くと尾根に出る。
ここは十字路になっていて、右手の道にはミニお四国の地蔵が並んでいる。
ここを真っ直ぐに行くと往還の「雑誌越え」で県境の黒滝峠を経て松山に至る。
ここは尾根に乗ってササの中の踏み跡を辿る。


水の峠を出発する。中央の看板は国有林の表示板。

膝ほどのササはやがて腰までになり次第に背丈ほどになってくるがササの密度は薄くブッシュと言うほどではなく、辺りの雑木林を楽しむ余裕も充分ある。
ただ、四方になだらかな尾根は時々踏み跡を見失いがちだが、立木にテープで印が付けられていたり、足元に営林署の標柱があったりするのでそう迷うこともなく尾根を西へと進んでゆける。


ササの中、尾根を行く。

水の峠から5分あまりで尾根道は少し下り、なだらかになって背丈ほどのスズタケの中を進む。
かつてこの尾根を辿ったことのある浜田さんによれば、以前はこんなにササは茂っていなかったとの事だが、あまり踏む人も無いのでゆっくりと自然に帰っているのだろう。

さて、足元にいくつか標柱を過ぎて、水の峠から20分ほど来ると、尾根道には身の丈2倍はあろうかというスズタケのブッシュが現れる。
このヤブには少し躊躇するかもしれないが、距離は僅かなので正面から強行突破してもそれほどの難儀はない。どうしてもヤブが苦手なら少し引き返して迂回しても良い。

スズタケのブッシュを過ぎるとやや急な登り坂になる。
坂にも背丈ほどのササが茂っているので左手の植林にエスケープしながら登っても良いが、先ほどのブッシュに比べれば容易いものである。

尾根の坂を10分ほど登ると次第にササ藪は薄くなる。
足元に降り積もった落ち葉の上でドングリが寝ころんでいるのを眺めながら更に5分ほど登ると、支尾根に出て、自然石で作られた山界標石と出会う。そばには82番の標柱もあり、左手一帯はヒノキの植林に覆われている。ここからほんの少し植林を歩く。


鬱陶しかったササも消えて落ち葉の尾根道を進む。

少しばかりの植林を抜けると、俄然、豊かな自然に囲まれた山歩きになる。
落葉樹林の彩りの中でもひときわブナの紅葉が美しく、黄金色に変色して光り輝く無数の葉は青い空から降り注ぐばかりに登山道を覆っている。


黄色く紅葉したブナの下を行く。このルート中屈指の美しい林でもある。

錦秋の山を登って行くと、徐々に背後の見晴らしが良くなり、大規模林道からも見えていた池川町のやまなみが覗きはじめる。
池川のど真ん中に聳える雨ケ森はこの角度から眺める姿がいかにもこの山らしい。
その後ろには手箱山の尾根筋が長い尾を引き、その左手には特徴ある筒上山が覗いている。
更に進むと、ピンクに色づいたマユミ(たぬきのかんざし)の実の向こうに石鎚山の雄大な姿も見えてきた。


登山道から振り返り、池川町を代表する独立峰「雨ケ森」(右)を眺める。左奥は手箱山。

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