GAMERO
これは『徳歯会報』1997年9月号〜10月号に掲載された怪奇小説の再録です。


 (1)
 T県T市X町はダイオ化学の巨大工場を中心とした工場街である。
 ダイオ化学は20年前、工場廃液の公害問題を引き起こした。公害病による死者も出している。
即座に工場は廃液を浄化する装置を設置。一時的に信用を取り戻したが、市民グループの調査に
より浄化装置の発熱が地域環境に深刻な影響を与えていることが判明した。

 浄化装置稼働時の発熱が、街の平均気温を上昇させているというのである。
 しかし問題発覚と同時期に不況の波が列島を直撃した。ダイオ化学は不況に強く、景気に反比例
して発展できる可能性があったため、市民グループは口を閉ざしてしまった。
 気温上昇が人体にどれはどの影響があるかという科学的なデータもなく、廃液公害ほどに関心が
もたれなかった、ということもあった。

 (2)

 19**年3月某日。T県T市X町の駅に一人の若い歯科医が降り立った。彼の名は藻田勇作。
彼はダイオ化学専属歯科診療所の新院長に就任することになったのである。
 駅には前院長・志場が出迎えにきていた。
志場は体を壊したということで、引退することになったのだそうだ。歳よりずいぶんふけて見える。
姿勢も悪く一見して病気だった。
 志場は、咳を交えながらボソボソと語りかけてきた。
「藻田先生・‥ですね。30才・‥ですか」
「はあ。若いですけど、がんばります」
藻田は自信満々に答えた。
「そうですか‥・‥・それじゃあ安心です」
「はい。しかしこの町は熱いですね。まだ3月なのに夏みたいだ」
「ええ。わしの体は、この妙な気候にやられたのです」
 と言うと、志場は藻田と入れ違いに電車に乗って去っていった。
まるでこの町から逃げるように‥‥‥。

 (3)
 この異常な気候のためか、街には常にイライラしたムードが立ちこめていた。
藻田が新院長に就任した歯科診療所に訪れる患者は、全員ダイオ関係者だが喧嘩による外傷などが
多く、また独特の酸蝕症もみられた。
 しかしこの熟さはどうしたわけだ。
温度計の指す気温自体は平常より若干高い程度なのに、体に感じる温度は異常に高いのだ。
(慣れるしかなかない)と藻田は思ったが、それには時間がかかりそうだった。
 診療所は衝生土三人と技工士が一人。衝生士の高部と芳賀は、共に23才で独身。どちらも可愛ら
しく、とても明るかった。
 しかしもう一人の夕霧理伽という衛生士は、性格に問題があって、人とうまく交流できないタイプ
であった。
無口で無表情。高部や芳賀とは決して喋ろうとしなかったので仲も悪かった。
もちろん患者にも上手に接することができなかった。
 しかし藻田は夕霧が気になった。
それは彼女が絶世の美女だったからだ。
青白い肌は陶磁器のような艶を放っている。切れ長の目が常に愁いをたたえており、吸いこまれそうだ。
体は華著で病弱な感じもあるが、出るところは出ておりスタイルは抜群だった。
 藻田はこんな神秘的な女性に会ったのは初めてだった。

 技工士の円野は気さくな男で話しやすかった。藻田はそれとなく夕霧のことを聞いてみた。
円野はにやりと笑い『やっぱり先生も気になりますか?』と、興味深い話を語り始めた。
「夕霧はとても薄幸な娘なんですよ。20年前の公害で、夕霧の親父は死んじゃったんですよ。
お母さんは気が変になって自殺。夕霧は工場の施設で育ったんです」
「君はそれを彼女自身から聞いたのかい?」
「いや。まあ噂なんですけどね。夕霧は自分のことなんか絶対喋らないですよ。人づきあいも
したくないみたいです。不幸な生い立ちだから屈折しちゃったんでしょうね。」
そうか、夕霧理伽には、そんな過去があったのか。藻田は腕を組み溜息をついた。
「確か公害で被害にあった家族の関係者が歯科関係の資格を取得した場合、優先的にうちの診
療所が雇用するという話だったね」
「そうなんですけど、今のところは、そういうのは夕霧だけですよ。給料とかもほかの2人よ
り多いとか。それで高部や芳賀は、ますます夕霧を嫌うんですよ」
「工場側は必要以上に被害者家族を擁護しているわけだな。文句が出ないようにして公害問題
の蒸し返しを回避しているのか・‥・‥」
 夕霧理伽に対する複雑な心境が、藻田の胸に微かな火を灯した。

「でも先生、夕霧には手を出さない方が良いですよ。ほかにも変な噂があるんですよ。昔レイプ
されたことがあるとか・‥…」
「何だって!」
「いや、まあ噂ですから......」

 悪い噂に逆行して、藻田はどんどん夕霧の妖しい魅力に引きずられていくのを感じた。
青白い陶磁器のような夕霧の肌が、藻田の脳裏に焼きついて離れなくなった。

 (4)
 ある日、藻田が診療を終えて支度をしていると、衛生士の高部が「ちょっと話がある」といって
きた。
 高部は就任当初から藻田に好感を持っていた。一目惚れである。診療中の藻田に熱い視線を送っ
たこともあった。
 しかし藻田の心は夕霧に向いているので、相手にされなかった。
そこで積極的な高部は、藻田に自分の気持ちをハッキリと伝えることにしたのだ。

「先生は夕霧さんのことが好きなんですか?」
高部はいきなり切り出した。
「いや。そんなことは・…‥」藻田は言葉を濁した。図星なので、とっさに返す言葉が出なかった。
 本当のところ藻田はあまり高部が好みではなかった。
高部は美人の部類ではあったが、合気道をやっていたせいか体がゴツイ。それに何でも歯に衣を者せ
ずに何でもずけずけと発言する。藻田はそういう女は、どうしても好きになれないのである。
「私は藻田先生のこと、一目見て好きになりました」
「そ、そうかい君はハツキリものを言うんだね。じゃあ僕もハツキリ言うよ。僕は夕霧理伽に惚れて
しまったよ。一目惚れってやつかな」
 藻田がそう言うと、高部は露骨に嫌悪感を示した。
「先生は夕霧さんのことを良く知らないでしょう?あの子は‥・…」
藻田は、手を振って高野の言葉を遮った。あまり楽しい話ではない。聞きたくなかったのだ。
「いや。円野君に色々聞いてるんだ・…・・」 
 しかし高野はしゃべり続けた。
「先生ノ確かに夕霧さんはきれいです。女の私が見てもハツとするぐらい。でも外見にごまかされて
はいけません。夕霧さんは人殺しなんですよ」
「ぇ…・‥」藻田は絶句した。夕霧が人殺し?それはいったいどういうことなのだろうか。

 高部は夕霧の意外な過去を語り始めた。
「これは友だちの友だちから聞いた話なのですが、事実なのです。衛生士学校時代に夕霧さんは強姦
されたのです。工場の廃液浄化装置の廃液槽の近くで.....」
やはりレイプの話は本当だったのか。藻田は思わず呻いた。高部は話を続けた。
「夕霧さんを襲ったのは、若い工員だったそうです。その時、夕霧さんは必死に抵抗して、牛乳ビン
でその工員の頭を殴ったのです。」
「それで打ち所が悪くて・・…・」
「そうです。その工員は三日後に病院で死んだのです」
「それは正当防衛じゃないか!」
「でも人殺しです!」
「違うよ!それで彼女が変な目で見られているんだったら、それは同情すべきことだ!」
 藻田はその話を聞いてますます夕霧がいとおしくなった。
夕霧を暗い過去の呪縛から救いださねば。それができるのは自分だけだ。藻田は勝手にそう思った。
(明日は夕霧を誘ってやる!)藻田は心に決めた。

 (5)
 次の日。高部は昨日の藻田の態度に腹を立てて不機嫌だった。
藻田はそんなことお構いなしで、夕霧の尻ばかり眺めていた。
 高部が妨害しているので機会は少ないが、一日に数回は、夕霧がアシストにつく。
その時こそ今の藻田にとっては最高の時間なのだ。
 今日もその至福の時がやってきた。高部の冷たい視線も気にならない。
目の前に夕霧がいる。夕霧の甘い匂いを間近に感じる。
藻田は患者そっちのけでその魅力に酔った。
 夕霧の白衣の下の引き締まった体を想像して熱くなった。
たまらなくなった藻田は夕霧の日をじっと見つめた。
 その瞳は底深い清のように冷たく、悲しい色をしていた。
夕霧は藻田の卑猥な視線から逃れようとしなかった。それどころか夕霧も藻田を見つめ返してくる
ではないか。
(これは脈があるぞ)
 藻田は喜んだ。しかしその喜びは戸惑いへと変わっていった。
いつまでたっても夕霧は視線を外さないのだ。まばたきすらしない。
 藻田は、その瞳から感情を読み取ることはできなかった。
しだいに戸惑いは、ある種の戦慄へ変化していった。
(これは……死人の目だ……)
恐ろしい。しかし極めて魅惑的。
抗い難い誘惑を感じた藻田は、診療の手が止まってしまった。冷や汗が流れ息が粗くなった。
 患者はそんな藻田を不思議そうに眺めて言った。
「先生。どうしたん。調子悪いのけ?」

 (6)
 診療が終わった。
藻田は帰り支度を始める夕霧に「ゆ、夕霧君。きょ今日、晩飯おごるよ」と言った。
子供のように声が上ずっていた。
 夕霧は一l瞬きょとんとしたが、顔を伏せて「遠慮します」と答えた。
その素っ気ない言い方に藻田は燃えた。
「院長が行こうと言ってるんだ。断るなよ」
夕霧はちょっと顔を上げて、迷惑そうに「…ハイ」と言った。
その声は、まさに蚊の泣くような小声だった。

 約束の時間になると、夕霧はいやに地味な服装で現れた。しかしシックな装いは夕霧の素の美し
さを際だたせ、藻田を興奮させた。
この街に来て最高の夜だ。藻田ははやる気持ちを抑えかねた。
 だが夕霧との夕食は、予想以上に静かなものになった。
会話が成立しないのだ。
 夕霧は始終うつむいたままで、藻田が語りかけても簡単な返事しかしなかった。
藻田は女性経験の豊富な方だったが、こういうタイプは初めてだった。
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