三一十四四二三歯科小説劇場
歯科大受験

ワイルド番外地
作:三一十四四二三

この作品は『徳歯会報』1998年2月号に掲載されました。

目次:(1)(2、3、4)
(1)

 今から20年前の話である。                       
私は東北の私立Z歯科大を受験するため、鈍行列車でN県の田舎町に向かっていた。
2月の東北は想像以上に寒い。汽車の中でも震えがくる。           
 私は流れ出る鼻水をすすりながら                     
(合格しても、こんなところには来たくないものだ。)と思った。       
私は寒さが苦手なのだ。                          
汽車が駅に入るというアナウンスがあったので、私は窓から前方を見た。    
しかし前方は、ただ真っ白なだけで、駅舎らしいものは見あたらなかった。   
それでも汽車はブレーキをかけた。線路脇にフワ〜と細かい雪が跳ね上がり、その
舞い散る雪の隙間に、かすかに黒い駅舎が見えた。              
つまり駅は豪雪の中に埋没していたのである。                
(とんでもないところに来たものだ)と思いながらホームに降りると、凍った地面
の冷たさが、靴底を通り越して足の裏に伝わってきた。            
まるで裸足で氷の上にいるようである。冷たいというより、痛い。       
 私は足の裏を丸め、飛び跳ねるように歩いて、迎えに来ているはずの剛(ごう)
という人を捜した。                            
しかしこの凍てついた無人駅には、私以外、誰もいないようであった。     
                                     
『剛さんなら安心よ。とてもしっかりした人らしいから。』          
と母は言った。                              
 私はZ歯科大を受験するにあたって、高校の三年先輩でZ歯科大生である剛新太郎
という人の下宿に泊めてもらうことになったのである。            
それは、母が、私がいわゆる『受験生の宿』に泊まることに反対したからである。
私の兄が受験の際、受験生の宿で安眠妨害されて、睡眠不足から受験に失敗した。
という嫌な過去があるからだという。                    
 剛新太郎の母親と私の母は、カルチャースクールで知り合ったのだそうだ。  
しかし、私の母は剛新太郎本人には面識がなく、ただ剛の母の話を鵜呑みにして、
『剛さんなら安心よ』と勝手なことを言っているだけなのである。       
 ちゃんと連絡は出来ているのだろうか?お調子者の母のことである。私は心配に
なってきた。                               
 見知らぬ土地。しかも極めて寒い豪雪の地である。汽車も一日に何本も走ってな
いような辺境なのだ。実に不安だ....... 。                   
 そして私は、剛新太郎の住所も電話番号も聞いていなかったことを思い出して、
途方にくれた。                              
 唯一の手がかりである剛新太郎の写真をポケットから取り出した。      
写真に写っているのは、詰め襟の学生服を着た仏頂面の男である。頭は丸刈りだ。
これは剛新太郎が高校の時の写真に違いない。ということは、少なくとも三年前の
写真である。こんな古い写真を平気でわたす剛の母親の神経も疑わしい。    
コートの裾から四国では体験したことのない、刺すような冷気が突き上げてくる。
 どうしよう....... 。                            
私はとにかく駅から出てみることにした。                  
喫茶店にでも入って、熱いものでも飲もう。そうしないと凍えてしまう。    
                                     
 しかし駅から一歩出た私は、愕然とするしかなかった。           
(真っ白だ)                               
駅の外には何もないのである。ただ雪が厚く積もった、一本道が視界の届く限り続
いているだけなのである。                         
 建物などは全く見えない。北国の灰色の空と、雪道の境界線すらはっきりしない
モノトーンの世界。                            
 おかしい........。駅から徒歩5分の場所にZ歯科大の校舎があるはずなのだ。   
あわてて、振り返って駅名を確かめる。                   
(間違いない!)                             
いったいどうなっているのだ。Z歯科大は豪雪に沈んでしまったのか?     
 駅舎に戻った私は電話を捜した。とにかく家に電話だ。私は何か大きな勘違いを
しているのだ。そうとしか思えない。                    
 駅舎の隅に電話を発見した私は、受話器を取ろうとしてギョ!となった。   
電話の脇の小さなベンチに、盛り上がったスポーツ新聞があったのだ。     
よく見ると、その新聞の端から人間の足がはみ出しているではないか。     
『わあ!し死体だ。凍死体だ!』                      
と思わず叫んだが、まてよ。もしや........。                  
 私は思いきって、新聞を取り払った。                   
そこにいたのは、死体ではなく、だらしなく眠りこけている男だった。     
「剛さん!」いや、違う。写真と全然違う。                 
写真の剛新太郎はギスギスに痩せていたが、ここで寝ている男は、いやらしい中年
のようにでっぷりと太っているではないか。たっぷりと脂肪を含んだたるんだ頬に
は、汚いホコリのようなヒゲが覆い、それがモジャモジャでフケだらけの長髪につ
ながっているのだ。写真の生真面目な青年とは、まったく別人である。     
これは浮浪者に違いない。                         
 浮浪者は、ゆっくりと目を開けた。そして私の顔を見ると、吃驚したように飛び
起きた。そして言った。                          
『おお!おあ!ああ....。ききき君は藍藤君だね!おおお、俺だ、いや、剛だよ!剛
新太郎だよ!』                              
その声はかん高く、とても耳障りであった。                 
 私はポケットの中で、例の写真を握りつぶした。              
                                     
 剛は『ずっと待ってたのに、どこに行ってたんだ』と、いうようなことを言って
私を責めた。                               
寝ていたくせに何を威張っているのか?私は不安でたまらなかったというのに。 
 立ち上がった剛をしげしげと見た私は、かえって不安が増した。       
 なんとだらしのない服装だろう。灰色の薄汚れたセーターは、ところどころ擦り
切れており、また、その全体は毛玉だらけであった。一ヶ月は、はき続けていると
思われるズボンは、元の色が何色なのか判明できないほど変色していた。そして、
こうした男の絶対条件として、セーターの裾から、シャツがはみ出しているのであ
る。そのシャツが煮染めたような黄色を呈しているのは言うまでもない。    
『寒いですね』と私が言うと。剛は無表情に                 
『そうでもないよ。まだ.......』と言った。                  
                                     
 剛は駅から出ると、私の三歩ぐらい前を早足で歩いた。常に小さい声で    
『ぶつぶつ......』と何か呟いている。表情も乏しく、何を考えているのか、全くわ
からなかった。私は、少し気味が悪くなってきた。              
 雪の一本道をしばらくまっすぐに歩くと、道路が途切れて崖になっていた。  
約十メートルの断崖である。その下にこじんまりした町並みが見える。     
 なるほど、これでは駅からは何も見えないはずだ。             
断崖から下を見ながら剛が                         
『ここから車が落ちることがある........』とボソリと言った。          
崖には柵がついていない。非常に危険である。私は、身を乗り出して、断崖の真下
を見た。そこには汚いアパートがあり、その屋根には補修工事のあとがあった。 
落ちた車が突っ込んだのだろうか。私は剛に                 
『いやあ、真下のアパートは危ないですねえ?』と言った。剛は少し考えて   
『いや、真下は危なくないんだ。車は加速がついているから、もっと向こうまで飛
ぶんだ。』と答えた。全く感情のないしゃべり方である。           
『でも、屋根に修繕のあとがありますよ?』                 
『ああ.....あれか。あれは車じゃなくて、人が落ちたあとだよ.......』       
 人間も落ちるのか。しかし剛は、よく知っている。             
『あれ......俺のアパートやから......』                     
剛は他人事のように言うのだった。                     
                                     
 断崖には細い鉄の階段が取り付けられている。剛が言うには、この階段を降りる
と、近道なのだそうだ。                          
私は『近道はいいです』と言ったが、剛はさっさと階段を降りはじめた。    
錆び付いていて、今にも崩れそうな階段は、一歩足を降ろすごとにギシギシと鳴っ
た。もちろん凍り付いているので、滑りやすい。手摺がついてない部分もあるので
滑って足を踏み外すと、下まで転落する危険があった。            
 おそらく剛のアパートに転落した人と言うのは、この階段で滑ったのだろう。 
 剛は慣れているので、どんどん降りていくが、私はおっかなびっくりである。 
ものすごく寒いのに、汗をかきながら、下まで降りた。すると、すぐに汗が凍って
しまい私はガタガタと震えた。                       
そんな私を見ながら、剛はにやにやと笑うのだった。             
                                     
 剛のアパートは、上から見た時もひどいと思ったが、前から見ると潰れかけのボ
ロボロであった。建物全体が左に傾斜しており、つっかえ棒のようなもので、支え
てあった。しかし入り口だけは、地面に水平にとりつけられている。たぶん傾斜が
ひどくなって、ドアが開かなくなったので、この部分だけ修理したのだろう。  
見ているだけで平衡感覚が狂ってクラクラするような物件である。       
『受験時は休講やから、今はこのアパートには、誰もおらんのや....皆、スキーに行
ってしまった.......』                             
 剛は私のためにスキーに行かなかったのか。なかなか良いところもあるようだ。
『俺は......スキーはできないから......。でも......パチンコはうまいんだぞ!』   
スキーとパチンコはあまり関係がないので、これは独特のジョークかと思ったが、
本人は大真面目で、胸をはっている。                    
 どうやら.....パチンコ(だけ)は、相当自信があるようだった。        

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